軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜



「安藤少佐、少しよろしいですか」
 真鍮の丸眼鏡を掛けた小柄な下士官が、丁寧に頭を下げて将臣へ声を掛けた。
「ああ、宝生(ほうしょう)衛生曹長」
 将臣は凪へ向き直った。
「少し席を外す。ここで待っていてくれ」
「はい」
 凪が小さく頷くと、宝生は丸眼鏡の奥の目を穏やかに細めて一礼し、将臣とともに将校たちの輪へと戻っていった。
 そのすぐ近くで、将校たちの会話が耳に入る。

「安藤少佐ほどの方なら、とっくに昇進していても不思議じゃない」
「実力は申し分ないのに、ご本人が望まれないそうですよ」
「もったいない話ですな」

 凪は思わず将臣の背中を見つめた。
(昇進を……望まない?)
 確か、以前、将臣は父ともそんなやりとりをしていた。
(どうしてなのだろう)
 凪の胸の中で、小さな違和感が静かに芽生えた。

 その時、凪の元へ一人の軍人が歩み寄ってきた。
 三十代半ばほどの、穏やかな笑みを浮かべた男性だった。
「失礼。安藤少佐の奥様ですね?」
「はい」
「安藤少佐、ご結婚されたんですね。やはり、約束を守られたんだ」
 凪は首を傾げる。
「約束……ですか?」
「ええ。桐谷さんとの約束ですよ」
 凪の表情が固まった。
「……兄をご存知なのですか?」
 軍人は目を丸くした。
「あれ? 安藤少佐から何も聞いておられないんですか?」
 しまった、とでも言いたげに頭を掻く。
「いや……これは私が話すことじゃないな」
「お願いです。兄のことを教えてください!」
 真っすぐ見つめられ、軍人は困ったように苦笑した。
「大した話じゃないんです。戦地では……少佐は、ずっと後悔されていたんですよ」
 小さく続ける。

「桐谷さんを……見捨ててしまった、と」

(──み、捨てた……?)
 凪の息が、ひゅっと喉の奥で止まった。
 その言葉が耳へ届いた瞬間、会場の賑やかなざわめきが、すっと遠ざかっていく。
 軍楽隊の音も、誰かの笑い声も、何も聞こえない。
 指先からひどく冷えてくる。
 凪はゆっくりと視線を上げる。
 会場の向こうで、将臣が軍医たちと穏やかに話していた。時折、小さく笑っている。
 その優しい横顔が、今はどうしても遠く感じた。

 戦地で……兄様を見捨てた
 だから……兄様との約束を守るために
 私を迎えてくださった……

 胸が、ぎゅっと締め付けられる。
 藤色の着物が、急に重たく感じた。

 今日見せてくれた笑顔も、
「妻です」と紹介してくれた声も、
 胸ポケットへ大切そうにしまった結菓子の包紙も。
 すべてが、別の意味を持ち始める。

(兄様を見捨てた罪悪感を埋めるために、私を迎えたの?)

 凪は冷えた指先を、そっと強く握り締める。

(私は……将臣様が望んで迎えた妻ではないのかもしれない)
 
 呆然と立ち尽くす凪の耳には、しばらく周囲の音が聞こえてはこなかった。












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