軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜
凪は勢いよく鍬を振り上げた。
「よいしょっ……!」
硬い土を無我夢中で耕していく。
「もっと薬草を育てないと……っ」
額から汗が垂れても、手のマメが破れても、凪は構わず作業に集中した。
「私の薬を待っている患者様がいるんだから……っ!」
畝を作り、種を蒔き、水をやる。そして、再び鍬を握りしめた。
気がつけば、空の色が変わっていた。
「……もう夕方? 薬を作らないと。その前に、夕餉の準備をして……」
(やることは、たくさんある。じっとしている暇なんてないわ)
凪は急いで手を洗うと、休むことなく炊事場へと向かった。
「……ただいま戻った」
将臣が玄関の戸を開けると、目の前にはいつも通り、凪が待ち受けていた。
「お疲れ様でした、将臣様」
にこりと微笑む凪の顔を見て、将臣はほっと胸を撫で下ろす。
「体調はどうだ?」
「はい。休んだら良くなりました! おかげ様でたくさん働けています」
鞄を受け取りながら、凪は饒舌に言葉を重ねる。
「そうか。休めたようで、よかった」
居間へ入って座卓を見たとき、将臣は違和感に気がついた。
「なぜ、夕餉が私の分だけなんだ? 凪は……?」
「私はこれから、近所にお薬を届けに行ってきます。ようやく、咳止めが調合できましたので」
凪の表情はどこか生き生きとしていた。
(良い顔をしているな……)
将臣はそう受け取ってしまった。
「一緒に行こう。どこの家だ?」
「近所ですから、一人で大丈夫です。先に召し上がっていてくださいね」
そう言うと、凪はすっと部屋から出ていってしまった。
将臣は座卓についた。
夕餉は、香ばしく焼けた魚に青菜の和え物、そして湯気の立つ味噌汁。
(仕事も食事も手を抜かない……すごいな、凪は)
将臣は何も知らぬまま、温かな食事に手をつけた。
翌朝も、座卓には将臣の食事しか置かれていなかった。
「凪! お前の分はどうしたんだ」
血相を変えた将臣が、炊事場へと入ってくる。
湯気が立ち上る蒸し器の前に、凪が立っていた。
「きちんと食べておりますから、大丈夫ですよ」
「何を作っているんだ?」
「実は……昨晩、薬を届けた先で『薬草を育てているなら、ヨモギ餅を作って欲しい』と頼まれまして」
「……そうか。だが、それは薬ではないのだから、無理に引き受けることはないんだぞ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
今朝もいつもと変わらない笑顔だった。
将臣は渋々納得し、一人で朝餉を食べた。
(根を詰めすぎだ。あれでは、いつか倒れてしまう……)
気がつけば、診療録にペンを走らせていた将臣の手が止まっていた。
「いかん。集中せねば……」
軽く頭を振り、再びペンを走らせる。
その時、医局の戸がトントンと叩かれた。
「安藤軍医。先ほど入院してきた患者の診察をお願いします」
二ノ宮がいつもの冷静な面持ちで現れた。
「……今、行く」
将臣はペンを置くと、すぐに立ち上がった。
病室のベッドの傍らで、将臣は診療録に目を通した。
患者は体格の良い中年の男性だったが、その体つきとは裏腹に、力なく横たわっている。
「吐き気と嘔吐、そして下痢が四日ほど続いており、食欲が著しく減退しているとのことです」
「吐瀉物や便に、何か特徴はあるか?」
「今のところは見られません。何の病気でしょうか……」
「……便の検査をしてみよう。何か分かるかもしれん」
「承知しました」
その時、患者のか細い声が漏れた。
「先生……。俺……死ぬのか……?」
頬がこけ、顔色が嫌に悪かった。
「原因をしっかり調べましょう。今は脱水を防ぐため、吐き気がない時に水分を──」
突然、男が絶望に染まった目で、将臣の腕を強く掴んできた。
「……っ!?」
── その瞬間、将臣の視界が歪む。
瞳に映ったのは、病床の男ではなく、血と泥に塗れた軍服を着た男の姿だった。
『軍医……助けてくれっ! 見捨てないでくれぇっ!!』
額からだらだらと流れる血。
収縮していく瞳孔から、光が消えていく──
「なっ……!?」
将臣の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「手を離しなさい! 何をしているんですか!」
二ノ宮の怒号で将臣は、はっと我に返った。自分の腕を強く掴む患者の手を、二ノ宮が必死に引き剥がそうとしていた。
「に、二ノ宮……っ。大丈夫だ……!」
荒い息を吐きながら、将臣は取り乱す患者の肩に優しく手を置いた。
「……不安もおありでしょう。だからこそ、しっかり検査をして原因を突き止めましょう」
「あっ……先生……す、すまない……」
男性は申し訳なさそうにしおらしく呟いた。
「……あとは頼む」
二ノ宮にそれだけ言い残し、将臣は急ぎ足で病室を出た。
青ざめた顔のまま必死に廊下を歩き、執務室へ駆け込むと、バタンと戸を閉めて壁に背をあずけた。
息が浅く、速い。
胸が押し潰されるような息苦しさに耐えかね、首元のボタンを荒々しく外した。眉間に深いシワを寄せ、そのまま壁を背にして座り込む。
「……ッ、ハッ……ハッ……まだ……許されないのか……っ!」
キリキリと割れるように痛む頭を強く強く抱え込んだ。
暗い部屋に、ただ促迫する息の音だけが不気味に響いていた。