軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜


「こんなに疲れているのに……どうして眠れないのかしら……」
 寝間着に着替え、鏡台の前に座った凪は静かに胸元まである黒髪を梳かす。ふと、壁掛け時計に目をやった。
「将臣様……今夜は遅いのね……」
 その時、襖の隙間から結丸がぬっと姿を現した。だが、いつものように甘えてくることはなく、少し離れた場所でちょこんと座り込む。
「あら……そばに来てくれないの?」
 結丸は、じっと静かな瞳で凪を見つめていた。
(結丸には……全部見抜かれている気がするわ……)
 凪はいざり寄り、結丸の目の前まで顔を近づけた。
「……私、将臣様から逃げてばかりね。このままじゃだめ……そう言いたいのよね?」
「……みゃん」
 短く鳴いた。
 凪は一瞬目を丸くしてから、くすりと自然な笑みを漏らした。
「……そうね。明日からは、食事も一緒にとるわ。もう余計な心配はかけないようにする」
 そして、ふっと遠い目をする。
「……逃げてばかりいたら……兄様に、叱られちゃうものね」
 その言葉を聞いた結丸が、ようやくトコトコと動き出した。凪の布団の中へ頭から潜り込み、顔だけをちょこんと出す。
「ふふ……結丸、一緒に寝てくれるの?」
 凪は櫛を戻すと布団に入り、愛おしそうに結丸を抱きしめた。
「あったかい……」
 伝わる小さな温もりに心がほどけ、凪は深い眠りへと落ちていった。


 凪を起こさぬよう、将臣は静かに玄関の戸を閉めた。
 家の中はすでに静まり返っており、凪が就寝していることがわかる。
(緊急の処置に会議……疲れたな。もう寝よう)
 将臣は静かに寝支度を整え、自分の部屋の床に入った。
 
 疲弊しきった身体が横になると同時に、意識は瞬く間に薄れていった。
 ぐっすり眠れているはずだった。
 虫の音も途絶えた、丑三つ時。
 突然、胸の上に冷たく重い鉄の塊を乗せられたような息苦しさに襲われた。
 吸おうとしても空気が入ってこない。酸欠の魚のように、口をパクパクと動かして酸素を求める。
「──っ、ハッ……!?」
 跳ね起きるように上半身を起こした。静まり返った暗闇に、自身の荒く激しい息遣いだけが響く。額に手を当てると、びっしょりと冷や汗をかいていた。
 呼吸を整えようと、深く息を吐き出す。それでも、どうしようもない不安が波のように押し寄せてくる。
 将臣はたまらず、シーツを指が白くなるほど強く強く握りしめた。
「……凪っ…………!」
 思わず、口から名前が漏れた。

 気がつけば、その足は吸い寄せられるように凪の部屋へと向かっていた。
(……一緒にいてくれ……っ。どうしようもなく、心と身体が、冷えてたまらない……!)

 躊躇することなく、凪の部屋の襖を静かに開けた。
 布団の傍らに膝をつき、そっと掛け布団に手をかけると、安らかな凪の寝顔があった。
 吸い寄せられるように、冷え切った指先で凪の柔らかい頬に触れた。
(……温かい……)
 指先から全身へ、凪の体温が侵食していく。
(……欲しい。凪の温もりが……っ)
 すがるように、熱を確かめるように、親指でその唇の端をそっと撫で下ろす。
 そのまま布団を剥がしかけ──泥のように眠る凪の無垢な顔を見て、将臣の手がピタリと止まった。

(……なぜ、私が手を出せる……?)
 冷えた手を、弾かれたように引っ込める。
(私は……まだ伝えられていない。凪から、大切な兄を奪ったというのに……っ!)
 込み上げてくる激しい嗚咽を、息を殺して押さえ込んだ。
 歪んだ苦痛の表情で、眠る凪を痛々しく見つめる。
 固く強く目を閉じると、将臣は床に手をついて立ち上がり、素早く踵を返した。
 将臣は眠る凪をもう一度だけ振り返った。
(……触れたい。……抱き潰したいほど、そばにいたいっ)
 けれど今の自分には、その資格がない。
 溢れそうになる感情を押し殺すように、固く唇を噛み締める。震える手で、静かに襖を閉めようとした。
 その時だった。
 最後のわずかな隙間から、するりと何かがすり抜けてきた。
「……結丸?」
 足元に、小さな身体が擦り寄ってくる。
 暗闇の中で、結丸の丸い瞳がじっと将臣を見上げていた。
「……お前まで、凪から奪うわけにはいかん……」
 掠れた声が震えた。
 将臣はその場に崩れ落ちるように膝をつく。
 伸ばした手が、宙で一度止まった。
 拒まれることを恐れるように躊躇したあと、将臣は結丸の身体を強く、強く抱き寄せた。
「……すまない……」
 小さな毛並みに額を押し当てる。
 凪の温もりを求めてしまった自分が、どうしようもなく憎い。
 それでも今は、何かに縋らずにはいられなかった。
「……少しだけ……ここにいてくれ」
 結丸は何も言わない。
 ただ、将臣の腕の中で小さく身体を丸め、喉を鳴らした。
 その音を聞いた瞬間、張り詰めていた将臣の肩が震えた。

 凪には触れられない。けれど、ひとりで耐えることもできない。
 将臣は結丸を抱いたまま、目を閉じた。荒い吐息が、暗い廊下に落ちていく。

(凪の温もりを求めながら……それに簡単に触れることは、許さない)

 将臣はその矛盾を抱えたまま、夜が明けるまで、ただじっと耐え続けた。



 




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