禁死篇 ~成人前に亡くなったけど、異世界で元気にがんばってます。
理不尽な争い
「お客様に怪我をさせてはどうしようもない。船を動かしなさい」
オプスキュリテが淡々と水主に命じるのを横目に、グレイスは悔しさで眉根を寄せた。怒りでぶるぶると手を震わせるがどうしようもない。
(アルテミスのほうが先に船を停泊させていたのに! アルテミスが場所を譲るの? わたくしたちが平民だから?)
グレイスの頭の中でぐるぐると不満が駆けめぐっている。
(ただの貴族のワガママじゃない! わたくしたちが何をしたっていうの? みんなでお花見を楽しんでいるだけなのに…)
執事もメイドも貴族のワガママに巻き込まれて、困惑したり怒りをこらえたりしている。リヒトなどは先ほどからずっと目をギラギラさせて、いかにも不満気だ。
「えっ、リヒトの目が…!」
怒りで爛々と光るリヒトの金色の瞳を見ながら、グレイスは悲鳴を上げそうになる。あのチカチカと光る目の色は、リヒトが人間から獣に姿を変える時に特有の色ではないか…?
(リヒト、リヒト! お願いだから伯爵令嬢の前で獅子に変化しないでちょうだいっ!)
ディクスン伯爵令嬢の眼前で獅子に変化されたら、アルテミス商会にどんな恐ろしい噂が立つか。アルテミスでは【魔の者】を雇い入れていると風評が広がったら、とんでもないことになる!
(ダメーー! 絶対にやめて! リヒト!)
オプスキュリテがリヒトの方に視線を向けたので、ふたりが【会話】していることは予想できた。リヒトとオプスキュリテはお互いに霊力があるので、心の中で会話ができるらしい。残念ながらグレイスにはそんな能力はないので、オプスキュリテが上手くリヒトを止めてくれることを祈るしかない。
(オプスキュリテ、お願いよ! リヒトを押さえて! 絶対に変化させないで!)
グレイスは心の中で絶叫する。自分よりも激怒しているリヒトの存在が、グレイスの心を冷静に引き戻していた。
オプスキュリテとリヒトがどんなやり取りをしたのかわからないが、リヒトの目の色がもとに戻ったことはわかった。リヒトが伯爵令嬢に何やら話しかけている。
「…良かった、リヒトの怒りがおさまったみたい…」
グレイスはホッとするが「のけ、のけ! のけ、のけ!」という忌々しい叫びはまだ続けられている。平民のものなら、横取りしても構わないと思っている人たちによって。
(今、船を動かしているでしょ。これ以上どうしろっていうの……)
貴族たちの「のけのけ、のけのけ」という囃し声を聞きながら、グレイスは思わず涙ぐんだ。しかしここで自分がメソメソしたら、お客様に余計な心配を掛けてしまう。
……絶対に泣いたりしない。こんな下品な人間のために涙なんか流したりしないわ。特権階級だからって、自分のことを偉いと勘違いしている人間なんか大嫌い! グレイスはキュッと口元を引き締める。
「オプスキュリテの言う通りね。お客様の安全が一番大切ですもの。どんどん船を動かしましょう!」
グレイスからも水主たちに声をかける。
アルテミス船は錨を上げると、威嚇してきた中型船に場所を譲るようにゆるゆると船を移動させる。注意深く移動しないと、湖面に咲いているローダという白い花を巻き込んで台無しにしてしまうのだ。
右舷に泊まっている大型船が〈船争い〉の騒ぎに気がついたようで、甲板に立った人びとが大勢こちらに注目していた。
「…おかしな注目を浴びてしまったわ…」と、グレイスはますます暗い気持ちになる。
大型船の甲板上で、金髪の少年が何やら相手方の船を指さしている。どうやら「あちらが悪い」と言っている様子だった。大型船はどこを見てもピカピカで、明らかに上位貴族の仕立てたものだろう。庶民の貸し船は、あんな豪華な造りになっていない。
「貴族同士だからといって、無条件で肩を持つわけではないんだわ」グレイスは少しホッとした。少なくとも、あの大型船の貴族たちはアルテミスに理があると思っている。
(平民が貴族とケンカをしても勝てっこない。ここはおとなしく譲るしかないんだわ。……場を丸く収めて、うまく仕切り直しをしなくちゃ!)
アルテミスの女主人として、舟遊びの招待客に嫌な思いをさせたままでは終われない!
アルテミス船がゆっくり動き始めると、右舷に停泊している大型船もゆるゆると動き出して、アルテミスに場所を譲ってくれる。大型船の陰になると、花見ができなくなるという配慮だろうか。
(ありがたいわ…)
グレイスが大型船に感謝したその直後。突然ビュッと大きな風が巻き起こって、グレイスは視界を奪われた。
「…なに、この風?」
目にゴミが入らないように、グレイスはぎゅっと目を瞑った。まるで小さなつむじ風だ。とても目を開けていられない。どこからか柑橘系の香りがフワッと辺り一面に漂う。まだ春なのに南風のように温かい、不思議な突風だった。
風が止んでから、グレイスは注意深くそっと目を開けた。目の前に大型船が浮かんでいる。
「えっ?」
グレイスはゆっくり首をかしげる。大型船がアルテミスの左舷に浮かんでいた。さっきまでは、アルテミスの右舷に少し離れて見えていたはずだ。…どうして大型船がこの位置に?
「右と左。…船の位置がおかしい?」
何が起きたのか、よくわからない。グレイスが目をぱちくりさせていると、リヒトが足早にやってきて耳元でささやいた。
「あの大型船には『やり手の術者』が乗っているようです。オプスキュリテも私と同じ意見です」
「……術者というと、魔法使いですか?」
グレイスは我ながらポカンとした声を出していると思う。
「やったのは大型船の術者です! 私とオプスキュリテではありません! 私は犯人ではありませんよ、グレイスさま!」
リヒトが「信じてください」と懇願するように何度も念を押してくる。
(別にリヒトたちのことを疑ってはおりませんけれど…。そもそも何が起きているのか、わたくしよくわかっておりません…)
「中型船の馬鹿貴族が揉め事を起こしたので、大型船に乗っている貴族が腹を立ててお仕置きしたんでしょう! いい気味ですね! グレイスさま、どうぞ船の位置を確認してみてください」
リヒトはせいせいしたように話している。笑顔を隠そうともしないところがリヒトらしい。
「……わたくしたちの船、先ほど中型船に追われて移動させたはずですよね?」
「船を動かしたのは間違いありませんが、実際には場所が移動しておりません」
リヒトはさらりと言ってのけた。
確かに、岸に見えるみごとな花々の景色が変わっていない。湖面に浮かぶ美しいローダの花も、ほぼ同じ位置に浮かんで見える。
(…まったく景色が変わっていない?)
つまり、船を移動させたにも関わらず、何故か場所は動いていないのだ。不可解すぎるが「これは魔法だ!」と言われれば受け入れるしかない。
「グレイスさま、移動したのはむしろ大型船の方です」
「…やっぱり? 大型船が移動していますよね?」
自分の思い違いではないのだ、とグレイスは思った。やはり大型船が一瞬で場所を移動させていた。
大型船はアルテミス船と〈船争い〉をした中型船との間を、まるで塞ぐように泊っている。ふたつの船を隔てるように、大型船が停泊しているのだ。いつの間にこんな船の配置になったのだろう?
リヒトとオプスキュリテは隣の大型船の甲板にじっと目を凝らした。隣といっても、船同士の安全のためにある程度の距離が保たれている。
〈オプスキュリテ、やったのはどいつだ?〉
《術者は、あの金髪の女だ》
〈……んっ、どこにいる?〉
オプスキュリテの方がリヒトよりも遠目が利くらしい。黒髪の男と金髪の少年は見えたが、女の姿はリヒトにはよくわからない。
メイドがひとりやってきて、グレイスたちに「隣の大型船から、お見舞いの品が届きました」と告げる。グレイスは驚いた。どうして見知らぬ貴族が私たちを見舞うのかしら? アルテミス商会とお付き合いのある貴族なの?
「お礼を言わなくてはなりませんね。わたくし、アルテミスの女主人ですもの…」
グレイスは頷きながら、そわそわと歩いていく。
しばらくすると、メイドや執事が大型船からの差し入れで騒ぎ始める。運びこまれた品は、アルテミスでは用意できない温かい料理と珍しい果実やお菓子だった。
おそらくあの大型船には厨房があって、火が自由に使えるのだろう。船上で煮炊きできるのは実に羨ましい。
「焼きたてのお肉や、温かいスープもあります。どちらもまだ温かいわ!」
グレイスが大いにありがたがっている。借り船では大掛かりに調理ができない。そこで調理済みの仕出し弁当を持ち込んで、お茶やコーヒーなどの飲み物だけ魔術具を使って温かいものを飲めるようにしている。
温かいスープや料理を配ると、船上のお客様に大好評だった。湖上で風が吹くので、温かい料理はやはり喜ばれるのだ。
「ふん、なかなか気が利いているではないか?」
リヒトはちゃっかり肉をつまみ食いしながら笑う。
差し入れの中にオレンジ色の果実があったので、花のように飾り切りしてこれもお客様に供してみる。甘くてみずみずしいとなかなかの高評価である。
「これは隣国アウソニアのフルーツだわ! 珍しいものを扱っているのね。さすがアルテミスだこと」
ディクスン伯爵令嬢が喜んでいる。
「実は、お隣の船からの差し入れなのです。先ほどの船争いをご覧になって、気の毒に思われたのでしょうか」
リヒトは肉やお菓子を大皿に盛って、さっそく令嬢に運んで来た。怖い思いをさせたお詫びのつもりである。
「あの大型船かしら? アウソニアのクリスティ公爵の紋章が出ているわ」
「……クリスティ公爵」
「隣国の高位貴族よ。古い巫女の家系で、なんでも海運王なんですって」
「ほぅ…巫女の…」
「あくまで噂話ですけれど、クリスティの船は過去に一度も沈んだことがなくて、嵐で荷を失ったことがないそうよ」
ディクスン伯爵令嬢が意味ありげに笑う。彼女はこういう謎めいた話が大好きなのだ。
「過去に一度も?」
リヒトも興味をひかれて、少し声が高くなる。
「これぞ魔法よね?」
海運業で嵐に一度も遭わないなどということがあるのだろうか? ミニヨンには海がないので海運業の商会はないが、保険協会はある。海運事故はかなり多いものだとリヒトは聞いているが…。
「クリスティは大きな霊力で船を守っているらしいの。それで、海運王として大成功したと言われているのよ」
「なるほど。…嵐で荷を失うことがない船か…」
リヒトは顎に手をそえて、ニッコリと大きく笑う。
〈先ほどのおかしな術は、嵐を避けるために有効なのかもしれんな。一瞬で船を移動させた。……面白い術者だ〉
オプスキュリテが淡々と水主に命じるのを横目に、グレイスは悔しさで眉根を寄せた。怒りでぶるぶると手を震わせるがどうしようもない。
(アルテミスのほうが先に船を停泊させていたのに! アルテミスが場所を譲るの? わたくしたちが平民だから?)
グレイスの頭の中でぐるぐると不満が駆けめぐっている。
(ただの貴族のワガママじゃない! わたくしたちが何をしたっていうの? みんなでお花見を楽しんでいるだけなのに…)
執事もメイドも貴族のワガママに巻き込まれて、困惑したり怒りをこらえたりしている。リヒトなどは先ほどからずっと目をギラギラさせて、いかにも不満気だ。
「えっ、リヒトの目が…!」
怒りで爛々と光るリヒトの金色の瞳を見ながら、グレイスは悲鳴を上げそうになる。あのチカチカと光る目の色は、リヒトが人間から獣に姿を変える時に特有の色ではないか…?
(リヒト、リヒト! お願いだから伯爵令嬢の前で獅子に変化しないでちょうだいっ!)
ディクスン伯爵令嬢の眼前で獅子に変化されたら、アルテミス商会にどんな恐ろしい噂が立つか。アルテミスでは【魔の者】を雇い入れていると風評が広がったら、とんでもないことになる!
(ダメーー! 絶対にやめて! リヒト!)
オプスキュリテがリヒトの方に視線を向けたので、ふたりが【会話】していることは予想できた。リヒトとオプスキュリテはお互いに霊力があるので、心の中で会話ができるらしい。残念ながらグレイスにはそんな能力はないので、オプスキュリテが上手くリヒトを止めてくれることを祈るしかない。
(オプスキュリテ、お願いよ! リヒトを押さえて! 絶対に変化させないで!)
グレイスは心の中で絶叫する。自分よりも激怒しているリヒトの存在が、グレイスの心を冷静に引き戻していた。
オプスキュリテとリヒトがどんなやり取りをしたのかわからないが、リヒトの目の色がもとに戻ったことはわかった。リヒトが伯爵令嬢に何やら話しかけている。
「…良かった、リヒトの怒りがおさまったみたい…」
グレイスはホッとするが「のけ、のけ! のけ、のけ!」という忌々しい叫びはまだ続けられている。平民のものなら、横取りしても構わないと思っている人たちによって。
(今、船を動かしているでしょ。これ以上どうしろっていうの……)
貴族たちの「のけのけ、のけのけ」という囃し声を聞きながら、グレイスは思わず涙ぐんだ。しかしここで自分がメソメソしたら、お客様に余計な心配を掛けてしまう。
……絶対に泣いたりしない。こんな下品な人間のために涙なんか流したりしないわ。特権階級だからって、自分のことを偉いと勘違いしている人間なんか大嫌い! グレイスはキュッと口元を引き締める。
「オプスキュリテの言う通りね。お客様の安全が一番大切ですもの。どんどん船を動かしましょう!」
グレイスからも水主たちに声をかける。
アルテミス船は錨を上げると、威嚇してきた中型船に場所を譲るようにゆるゆると船を移動させる。注意深く移動しないと、湖面に咲いているローダという白い花を巻き込んで台無しにしてしまうのだ。
右舷に泊まっている大型船が〈船争い〉の騒ぎに気がついたようで、甲板に立った人びとが大勢こちらに注目していた。
「…おかしな注目を浴びてしまったわ…」と、グレイスはますます暗い気持ちになる。
大型船の甲板上で、金髪の少年が何やら相手方の船を指さしている。どうやら「あちらが悪い」と言っている様子だった。大型船はどこを見てもピカピカで、明らかに上位貴族の仕立てたものだろう。庶民の貸し船は、あんな豪華な造りになっていない。
「貴族同士だからといって、無条件で肩を持つわけではないんだわ」グレイスは少しホッとした。少なくとも、あの大型船の貴族たちはアルテミスに理があると思っている。
(平民が貴族とケンカをしても勝てっこない。ここはおとなしく譲るしかないんだわ。……場を丸く収めて、うまく仕切り直しをしなくちゃ!)
アルテミスの女主人として、舟遊びの招待客に嫌な思いをさせたままでは終われない!
アルテミス船がゆっくり動き始めると、右舷に停泊している大型船もゆるゆると動き出して、アルテミスに場所を譲ってくれる。大型船の陰になると、花見ができなくなるという配慮だろうか。
(ありがたいわ…)
グレイスが大型船に感謝したその直後。突然ビュッと大きな風が巻き起こって、グレイスは視界を奪われた。
「…なに、この風?」
目にゴミが入らないように、グレイスはぎゅっと目を瞑った。まるで小さなつむじ風だ。とても目を開けていられない。どこからか柑橘系の香りがフワッと辺り一面に漂う。まだ春なのに南風のように温かい、不思議な突風だった。
風が止んでから、グレイスは注意深くそっと目を開けた。目の前に大型船が浮かんでいる。
「えっ?」
グレイスはゆっくり首をかしげる。大型船がアルテミスの左舷に浮かんでいた。さっきまでは、アルテミスの右舷に少し離れて見えていたはずだ。…どうして大型船がこの位置に?
「右と左。…船の位置がおかしい?」
何が起きたのか、よくわからない。グレイスが目をぱちくりさせていると、リヒトが足早にやってきて耳元でささやいた。
「あの大型船には『やり手の術者』が乗っているようです。オプスキュリテも私と同じ意見です」
「……術者というと、魔法使いですか?」
グレイスは我ながらポカンとした声を出していると思う。
「やったのは大型船の術者です! 私とオプスキュリテではありません! 私は犯人ではありませんよ、グレイスさま!」
リヒトが「信じてください」と懇願するように何度も念を押してくる。
(別にリヒトたちのことを疑ってはおりませんけれど…。そもそも何が起きているのか、わたくしよくわかっておりません…)
「中型船の馬鹿貴族が揉め事を起こしたので、大型船に乗っている貴族が腹を立ててお仕置きしたんでしょう! いい気味ですね! グレイスさま、どうぞ船の位置を確認してみてください」
リヒトはせいせいしたように話している。笑顔を隠そうともしないところがリヒトらしい。
「……わたくしたちの船、先ほど中型船に追われて移動させたはずですよね?」
「船を動かしたのは間違いありませんが、実際には場所が移動しておりません」
リヒトはさらりと言ってのけた。
確かに、岸に見えるみごとな花々の景色が変わっていない。湖面に浮かぶ美しいローダの花も、ほぼ同じ位置に浮かんで見える。
(…まったく景色が変わっていない?)
つまり、船を移動させたにも関わらず、何故か場所は動いていないのだ。不可解すぎるが「これは魔法だ!」と言われれば受け入れるしかない。
「グレイスさま、移動したのはむしろ大型船の方です」
「…やっぱり? 大型船が移動していますよね?」
自分の思い違いではないのだ、とグレイスは思った。やはり大型船が一瞬で場所を移動させていた。
大型船はアルテミス船と〈船争い〉をした中型船との間を、まるで塞ぐように泊っている。ふたつの船を隔てるように、大型船が停泊しているのだ。いつの間にこんな船の配置になったのだろう?
リヒトとオプスキュリテは隣の大型船の甲板にじっと目を凝らした。隣といっても、船同士の安全のためにある程度の距離が保たれている。
〈オプスキュリテ、やったのはどいつだ?〉
《術者は、あの金髪の女だ》
〈……んっ、どこにいる?〉
オプスキュリテの方がリヒトよりも遠目が利くらしい。黒髪の男と金髪の少年は見えたが、女の姿はリヒトにはよくわからない。
メイドがひとりやってきて、グレイスたちに「隣の大型船から、お見舞いの品が届きました」と告げる。グレイスは驚いた。どうして見知らぬ貴族が私たちを見舞うのかしら? アルテミス商会とお付き合いのある貴族なの?
「お礼を言わなくてはなりませんね。わたくし、アルテミスの女主人ですもの…」
グレイスは頷きながら、そわそわと歩いていく。
しばらくすると、メイドや執事が大型船からの差し入れで騒ぎ始める。運びこまれた品は、アルテミスでは用意できない温かい料理と珍しい果実やお菓子だった。
おそらくあの大型船には厨房があって、火が自由に使えるのだろう。船上で煮炊きできるのは実に羨ましい。
「焼きたてのお肉や、温かいスープもあります。どちらもまだ温かいわ!」
グレイスが大いにありがたがっている。借り船では大掛かりに調理ができない。そこで調理済みの仕出し弁当を持ち込んで、お茶やコーヒーなどの飲み物だけ魔術具を使って温かいものを飲めるようにしている。
温かいスープや料理を配ると、船上のお客様に大好評だった。湖上で風が吹くので、温かい料理はやはり喜ばれるのだ。
「ふん、なかなか気が利いているではないか?」
リヒトはちゃっかり肉をつまみ食いしながら笑う。
差し入れの中にオレンジ色の果実があったので、花のように飾り切りしてこれもお客様に供してみる。甘くてみずみずしいとなかなかの高評価である。
「これは隣国アウソニアのフルーツだわ! 珍しいものを扱っているのね。さすがアルテミスだこと」
ディクスン伯爵令嬢が喜んでいる。
「実は、お隣の船からの差し入れなのです。先ほどの船争いをご覧になって、気の毒に思われたのでしょうか」
リヒトは肉やお菓子を大皿に盛って、さっそく令嬢に運んで来た。怖い思いをさせたお詫びのつもりである。
「あの大型船かしら? アウソニアのクリスティ公爵の紋章が出ているわ」
「……クリスティ公爵」
「隣国の高位貴族よ。古い巫女の家系で、なんでも海運王なんですって」
「ほぅ…巫女の…」
「あくまで噂話ですけれど、クリスティの船は過去に一度も沈んだことがなくて、嵐で荷を失ったことがないそうよ」
ディクスン伯爵令嬢が意味ありげに笑う。彼女はこういう謎めいた話が大好きなのだ。
「過去に一度も?」
リヒトも興味をひかれて、少し声が高くなる。
「これぞ魔法よね?」
海運業で嵐に一度も遭わないなどということがあるのだろうか? ミニヨンには海がないので海運業の商会はないが、保険協会はある。海運事故はかなり多いものだとリヒトは聞いているが…。
「クリスティは大きな霊力で船を守っているらしいの。それで、海運王として大成功したと言われているのよ」
「なるほど。…嵐で荷を失うことがない船か…」
リヒトは顎に手をそえて、ニッコリと大きく笑う。
〈先ほどのおかしな術は、嵐を避けるために有効なのかもしれんな。一瞬で船を移動させた。……面白い術者だ〉