そこに愛は?
1.失恋は突然だった
「……ああっ」
交差点の途中、雑踏に揉まれて老女が膝をついた。夏樹はヒールを鳴らして駆け寄り、倒れ込む体とシルバーカーを支えた。
「あ、ありがとう……、お嬢さん」
「一緒に行きましょう」
夏樹は老女の横についた。
瞬時に歩き方を目視する。膝の打撲、衣服の擦れ、表情の歪み――大丈夫そうだ。
交差点を渡り終え、ガードレールの横へ誘導する。
「被害届を出しますか?」
目の前の交番を指す。
「大袈裟よぉ、こんな年寄りが通勤ラッシュの時間にうろうろしてるのが悪いんだから」
老女は肩をすくめて笑った。
「でも、私の代わりに怒ってくれてありがとうね」
「……」
何度も会釈する老女を見送ってから、夏樹は小さく息を吐いて踵を返した。
――今日も日課の『一日一助』が終わってしまった。
対極にあるもの同士が混ざり合う都会。
この街で暮らすようになってからというもの、毎朝の通勤ルートだけで日課をクリアしてしまう。地元では学校から帰宅するまでみつからないことも多く、家の中で親を助ける『ズル』をしてなんとか終わらせることもあったというのに。
夏樹は一瞬立ち止まり、薄い空と雑多な街を仰ぎ見た。
***
――「ナツ! ほんとなのっ?」
職場の警察署に着くと同時に、同期の舞華が怒り肩で向かってきた。
この時間、本署一階フロアは出勤と出動の警察官でごった返している。舞華はその間を器用にすり抜けてきた。
舞華とは少し前まで三階の『情報管理課』で机を並べていた仲だ。
「あのワンコと別れたって」
「マイマイ、おはよう」
夏樹はパソコンを立ち上げた。
破局したことが大々的に広まったら、腫れ物に触るように扱われるだろうと覚悟していた。そのたびに自分は失恋の傷口をえぐられることになるだろうことも。
だから、遠慮のないストレートな舞華の物言いに心が軽くなった。
「嘘だよね、あんたの方がふられたって……」
舞華はわなわなしている。
「しかもその理由が、『他に好きな女ができた』って……」
夏樹は肩をすくめて頷いた。
「……うん、そんなこと言われた」
「はあっ? ひとめ惚れだなんだって大騒ぎして、あんたを連れ去っておいて?」
ばんっ、と机に両手を置く。
舞華はふわふわしたお菓子のような外見に似合わず、姉御肌だ。
「あいつっ! ナツにこんなマネしてっ! 絶対に許してなるものか」
舞華は憤怒の形相で地団太を踏んだ。
(……もう許しちゃったんだけどね)
「なんか言ったっ?」
夏樹は強く左右に首を振った。
胸のあたりがくすぐったい。
さっきの老女の言葉が蘇ってきた。
……そうだね、誰かが自分の代わりに怒ってくれるのって、嬉しいものだ。
と、どこからか強い視線を感じた。
がやがやと賑やかなあちこちを、大雑把に見る。
時々感じる“それ”の正体をいつか確かめたい――と思いながら、ガタイの良い大男たちが視界を横切るせいでなかなか辿り着けないのだった。
「ナツ? 聞いてる?」
「え、ああ、うん。聞いてる」
夏樹の肩が舞華の両手によって固定された。
「浮気だよね、これ。あんたとつきあってるときから向こうとよろしくやってたってことだよね」
「浮気ではないみたい。片想いだって言ってたし」
「!」
舞華の顔が真っ赤になる。
「この屈辱、絶対晴らしてやる」
ぶつぶつ言い出した。
「とにかく私にまかせて」
「あ、……うん」
頷いてしまった。舞華があまりにも頼もしくて。
それに失恋後の正解が分からない。
警察職員として社会人スタートを切ってほどなく、四歳下の柳楽光琉に猛アタックされるまで、夏樹には“恋愛対象”が存在したことがなかった。
「結城夏樹さん! 好きです! つきあってください!」
「生まれて初めて、一目惚れしました。あなたは俺の運命の人です!」
「こんなに人を好きになったの初めてなんです」
光琉はぐいぐいと夏樹の懐に入ってきた。
夏樹はずっと困惑していた。
中高と厳格なカトリック系の女子校だった。必死に勉強してT大の農学部に合格するも、研究室と図書館を往復する日々だった。
男に免疫がなさすぎて、初めて“お姫様のように”扱われて絆されてしまった。
……これが恋愛かあ。甘くて、悪くないな。
夏樹は光琉に気を許した。当然、求められるまま体も許した。
そうやって二年半が過ぎた。
別れの予感は一切、なかった。
「また後で来るから」
始業時間が迫り、舞華は焦って駆けて行った。
後ろ姿を見送って、夏樹も椅子に座り直した。
目の前のボックスに手を入れる。
昨日処理した後から放り込まれている領収書に目を通す。
仕分けていると誰かが近づいてきた。
夏樹はおもむろに顔を上げた。
自分を見下ろしていたのは、同期の警察官、日向宗一郎だった。
特に親しいわけでもないが、気がつくと目に入る場所にいる人だった。
「結城さんに頼みたいことがあって」
日向が難しそうな顔つきで寄ってきた。
「大丈夫だよ。なに?」
業務のことだろうと思い、内容を聞かずに引き受けた。
日向がほっとしたように緊張を解いた。
「ありがとう。じゃあ、日曜日に」
「……?」
一瞬聞き流し、夏樹は顔を上げた。
……日曜日? 休日? ん?
「日向、なにしてる、行くぞ」
「はい。――結城さん、またあとで」
先輩警察官に急かされ、日向は去っていった。
入れ違いに、隣に座っている後輩の磯山琴音が椅子ごと近寄ってきた。
「日向さんと仲良いんですか?」
今年入社の琴音は終始おどおどしていて可愛らしい。守ってあげたくなるタイプだ。
「日向君? まあ、同期だから、普通に喋るかな」
「うわあ」
……うわあ?
琴音が耳打ちのようなポーズをしてきた。
反射的に耳を寄せた。
「日向さんって女嫌いじゃないですか」
< 1 / 5 >