ハ シ ル !
最終話「襷をつないだ景色」
天気予報は雨だった。
スタート一時間前。
今のところ雨は降っていない。
テントの中で、最後の円陣が組まれた。
9人で肩を組む。
自治会長の父が何やら熱いことを言っている。
その最中も、隣で飛鳥が堪えるように笑っていた。
原因は多分これ。
このハチマキ。
遡ること15分前——
「うわっ」
頭に巻いたハチマキの先をクイと引っ張られた。
「くっろ。白いハチマキじゃなかった?」
飛鳥はそう言って、私の後頭部から垂れ下がったハチマキを手でなびかせた。
「みんなのメッセージが滲んだの」
「あーね」
飛鳥がハチマキをまた引っ張る。
「はに、の…のれ…? 謎解き?」
つむじに、息がかかる。
私は無理やり頭を遠ざけた。
「はぁ? そんなこと書いてない」
「いや、書いてあるよ」
「意味分かんないし」
「ちょっと待って」
飛鳥はスマホで私のハチマキを写真におさめた。
「ほら」
差し出された画面を覗く。
——ハ シ ル !
「……最悪」
「え。何が?」
「どう見ても“ハシル”だから!!」
私はスマホを飛鳥に突き返した。
「走る?……あぁ!ハシル!」
飛鳥は間の抜けた顔でポンとスマホを叩いた。
そして吹き出す。
「なに笑ってるの」
「いや絶妙にダサいって」
飛鳥はツボにはまったのか、声も出さず腕で口を押さえるように笑っていた。
本当、腹が立つ。
腹が立つのに、私もつられて笑ってしまった。
気が付けば円陣は解かれ、それぞれが襷を受け取る地点へ移動を始めた。
ここからは、自分との戦い。
誰も手を引いてくれなければ、背中を押してもくれない。
自分の足で立ち、襷を受け取り、次の人に繋ぐ。
そういうスポーツだ。
「遥香」
呼んだのは父だった。
「靴ひも、ほどけてるぞ」
足元に視線を落とすと、靴ひもが地面に垂れ下がっていた。
蛍光ピンクの靴ひも。
「あ……」
私がしゃがむよりも先に、父が手を伸ばす。
その姿を見て、思い出した。
そういえば——小学生の頃。
父はいつもこうして、私の靴ひもを結び直してくれた。
最初の頃は縦になっていた輪っかも、気付けば綺麗に横に並ぶようになった。
心なしか白髪の増えた父の頭。
少し細くなった肩。
でも、靴ひもを結ぶ指先は、あの頃のままだった。
少しだけ、喉の奥が締め付けられた。
「ありがと……お父さん」
小さな声でそう言うと、少し間が空いて「おお」と返ってきた。
テントの中には、もう誰もいない。
雲間には、青空が見え始めていた。
奏馬くんから襷を受け取ったのは、かなり後のほうだった気がする。
順番なんて数えていなかったけれど。
小さな体から託された襷が、思ったより重たく感じた。
「はるかー!いけー!!」
そう叫んだ奏馬くんは、眩しいくらいの笑顔だった。
私は、もたつきながら襷を肩に掛ける。
車なんか走っていない。
沿道で無数の小さなフラッグが揺れている。
声援は、遠い。
街路のケヤキの本数を数えるのは、途中でやめた。
数日前に車で下見をした時とは、まるでちがう景色に見えた。
苦しい
暑い
つらい
でも、この襷を繋ぐまでは、足を止めるわけにはいかなかった。
ようやく視界に父の姿を捉えた時。
私は、確かに笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
こんな気持ちになったのは、いつぶりだろう。
分からない。
分からないけど、それでいいか、と——そう思えた。
襷を肩から抜いて、くしゃくしゃに丸めて握る。
「遥香!」
そう叫んで手を伸ばした父の表情を、私はきっと忘れない。
手から手へ、襷は繋がった。
小さくなる父の背中の向こうは、もう雲ひとつない。
天気予報は、外れたらしい。
大会が終わると、私たちはゴール地点で再び円になった。
「繋いだぞー!」
「おー!」
9人で手を繋ぎバンザイをする。
拍手と誰かの指笛が、円をゆっくり解いていった。
奏馬くんは、走り足りないとでもいうかのように、飛び跳ね始めた。
鼻を掠める甘い香りを辿れば、大平さんが「腹へったー」と言いながらバナナをかじっている。
ほんと、自由だな。
「ハシレた?」
また、ハチマキが後ろに引っ張られた。
今度は額に息がかかる。
「……うるさい、変態」
「え、なんで。どこが」
パッと両手をあげた飛鳥に、また笑ってしまった。
順位なんて、知らない。
それでも、みんなが笑っていた。
私は、その場で小さく足踏みをする。
この靴ひもは、多分もうほどけない。
応援に来ていた母が、カメラを構えた。
「全員で撮りましょ。並んで並んで」
ゴール地点の大きなアーケードの前。
横一列に並ぶ。
思わず、みんなの顔を覗き込んだ。
仲間。
父。
カメラの向こうの母。
そして、私。
——これだ。
この景色が、好きなんだ。
私はようやく、カメラのレンズを見た。
「ハイ、チーズ」
スタート一時間前。
今のところ雨は降っていない。
テントの中で、最後の円陣が組まれた。
9人で肩を組む。
自治会長の父が何やら熱いことを言っている。
その最中も、隣で飛鳥が堪えるように笑っていた。
原因は多分これ。
このハチマキ。
遡ること15分前——
「うわっ」
頭に巻いたハチマキの先をクイと引っ張られた。
「くっろ。白いハチマキじゃなかった?」
飛鳥はそう言って、私の後頭部から垂れ下がったハチマキを手でなびかせた。
「みんなのメッセージが滲んだの」
「あーね」
飛鳥がハチマキをまた引っ張る。
「はに、の…のれ…? 謎解き?」
つむじに、息がかかる。
私は無理やり頭を遠ざけた。
「はぁ? そんなこと書いてない」
「いや、書いてあるよ」
「意味分かんないし」
「ちょっと待って」
飛鳥はスマホで私のハチマキを写真におさめた。
「ほら」
差し出された画面を覗く。
——ハ シ ル !
「……最悪」
「え。何が?」
「どう見ても“ハシル”だから!!」
私はスマホを飛鳥に突き返した。
「走る?……あぁ!ハシル!」
飛鳥は間の抜けた顔でポンとスマホを叩いた。
そして吹き出す。
「なに笑ってるの」
「いや絶妙にダサいって」
飛鳥はツボにはまったのか、声も出さず腕で口を押さえるように笑っていた。
本当、腹が立つ。
腹が立つのに、私もつられて笑ってしまった。
気が付けば円陣は解かれ、それぞれが襷を受け取る地点へ移動を始めた。
ここからは、自分との戦い。
誰も手を引いてくれなければ、背中を押してもくれない。
自分の足で立ち、襷を受け取り、次の人に繋ぐ。
そういうスポーツだ。
「遥香」
呼んだのは父だった。
「靴ひも、ほどけてるぞ」
足元に視線を落とすと、靴ひもが地面に垂れ下がっていた。
蛍光ピンクの靴ひも。
「あ……」
私がしゃがむよりも先に、父が手を伸ばす。
その姿を見て、思い出した。
そういえば——小学生の頃。
父はいつもこうして、私の靴ひもを結び直してくれた。
最初の頃は縦になっていた輪っかも、気付けば綺麗に横に並ぶようになった。
心なしか白髪の増えた父の頭。
少し細くなった肩。
でも、靴ひもを結ぶ指先は、あの頃のままだった。
少しだけ、喉の奥が締め付けられた。
「ありがと……お父さん」
小さな声でそう言うと、少し間が空いて「おお」と返ってきた。
テントの中には、もう誰もいない。
雲間には、青空が見え始めていた。
奏馬くんから襷を受け取ったのは、かなり後のほうだった気がする。
順番なんて数えていなかったけれど。
小さな体から託された襷が、思ったより重たく感じた。
「はるかー!いけー!!」
そう叫んだ奏馬くんは、眩しいくらいの笑顔だった。
私は、もたつきながら襷を肩に掛ける。
車なんか走っていない。
沿道で無数の小さなフラッグが揺れている。
声援は、遠い。
街路のケヤキの本数を数えるのは、途中でやめた。
数日前に車で下見をした時とは、まるでちがう景色に見えた。
苦しい
暑い
つらい
でも、この襷を繋ぐまでは、足を止めるわけにはいかなかった。
ようやく視界に父の姿を捉えた時。
私は、確かに笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
こんな気持ちになったのは、いつぶりだろう。
分からない。
分からないけど、それでいいか、と——そう思えた。
襷を肩から抜いて、くしゃくしゃに丸めて握る。
「遥香!」
そう叫んで手を伸ばした父の表情を、私はきっと忘れない。
手から手へ、襷は繋がった。
小さくなる父の背中の向こうは、もう雲ひとつない。
天気予報は、外れたらしい。
大会が終わると、私たちはゴール地点で再び円になった。
「繋いだぞー!」
「おー!」
9人で手を繋ぎバンザイをする。
拍手と誰かの指笛が、円をゆっくり解いていった。
奏馬くんは、走り足りないとでもいうかのように、飛び跳ね始めた。
鼻を掠める甘い香りを辿れば、大平さんが「腹へったー」と言いながらバナナをかじっている。
ほんと、自由だな。
「ハシレた?」
また、ハチマキが後ろに引っ張られた。
今度は額に息がかかる。
「……うるさい、変態」
「え、なんで。どこが」
パッと両手をあげた飛鳥に、また笑ってしまった。
順位なんて、知らない。
それでも、みんなが笑っていた。
私は、その場で小さく足踏みをする。
この靴ひもは、多分もうほどけない。
応援に来ていた母が、カメラを構えた。
「全員で撮りましょ。並んで並んで」
ゴール地点の大きなアーケードの前。
横一列に並ぶ。
思わず、みんなの顔を覗き込んだ。
仲間。
父。
カメラの向こうの母。
そして、私。
——これだ。
この景色が、好きなんだ。
私はようやく、カメラのレンズを見た。
「ハイ、チーズ」