再会した冷徹上司は、私にだけ過保護です
第2話 冷徹上司と新入社員
「それは感情で推しているだけだろう。感情で仕事をするな。迷惑だ」
冬馬先輩のデスクの前で、女子社員が泣いている。
――翌日の、それがし出版編集部に流れる冷たい空気。
先輩に企画を提出した女子編集者が、彼に詰められているのだ。
「うわ、かわいそ……」
「相変わらずキッツ~……」
編集部では、冬馬先輩の態度を見て、他の編集者が眉をひそめている。
――でも、先輩は若手のエースと呼ばれている人。
彼の許可が降りないと、企画が通らないと言われていた。
「ど、どうしよう……。あんな人に企画なんて出せないよぉ……」
私の同期が、企画書を持ったまま震えている。
……私は、キッと先輩の方を見据えた。
「私が出してくるよ」
「えっ」
同期の手から企画書を取って、先輩のデスクへ向かう。
「こ、小日向さぁん!?」
「あ、あの子、なにを……」
「泣かされて終わりだぞ!」
編集部がざわついた。
私はツカツカと歩き、デスクに座っている先輩の前で止まる。
冬馬先輩は、私の目を見つめていた。
「――こちら、お願いします」
「……見せてもらおう」
先輩は、私が差し出した企画書を受け取る。
しばらく黙り込んだまま、黒い手袋をした指で書類のページをめくり、じっと読んでいた。
編集部の面々が、固唾を飲んでそれを見守っている空気を感じる。
冬馬先輩は、企画書のページを最後まで読んでくれた。
目を閉じて、機械が情報を処理しているかのように、静止する。
……やがて、ふう……と息を細く吐いた。
「……それで?」
私は視界がパッと開けたような気分になる。
この言い方、話を聞いてくれる態勢だ。
通る可能性がある。
同時に、試されていると理解した。
「この企画書の通り、この作家さんを雑誌の特集に、ぜひ推したいです!」
先輩の鋭利な目が、私に向けられた。
「……この作家はまだ無名だ。いきなり雑誌に掲載は無理がある」
「でも、こないだ〇〇文学賞で佳作でしたし、これから伸びると思います!」
「『伸びると思う』では根拠にならない。売上の見込みは? 読者層はどこを想定している?」
先輩が矢継ぎ早に質問してくる。
これは……少なくとも却下ではない。
説得力のある論拠を示せば理解はしてくれる。
「この作家さん、SNSで固定ファンが続々と増えてきています。扱っているジャンルも、今じわじわと伸びてきていて……」
私は先輩の手にしている企画書を覗き込みながら、該当の箇所に指を差した。
「既存読者と新規層、両方狙える位置にいるんです」
「……ふむ」
冬馬先輩は、企画書を見ながら、空いた手で顎を撫でる。
これは、感触がいい、気がする。
ただの「推したい」から、「通せる企画」になっている、と思う。
「……着眼点は面白い。だが、詰めが甘い。ファンが増えていると言っても、まだ数字が……」
私と先輩が企画書を見ながらあーだこーだと議論していると、
「ちょいちょいちょい。氷室ちゃん、小日向ちゃんにだけ甘くないっすかぁ~?」
「うわびっくりした」
突然、男性社員が割り込むように話しかけてきて、私は目を丸くした。
「……甘くない。仕事の話をしているだけだが?」
「いやいや、さっき泣かせてた子と温度差違いすぎません?」
他の編集者も、口には出さないが、うんうんと頷いている。
「多分、俺が同じこと言っても聞いてくれないでしょ?」
「えっと……冬馬先輩、これが通常運転なんですけど……」
「ふーん?」
男性社員は愉快そうに口の端を吊り上げながら、冬馬先輩と私を交互に見やった。
「氷室ちゃん、仕事できる人には優しいタイプっすよね」
「……何が言いたい」
「いやぁ? 評価する相手にはちゃんと時間使うんだな~って思って」
軽口を叩きながら、男性社員は私に小声で囁く。
「ちゃんと筋通ってるっすよ、その説明」
「本当ですか?」
「うん。俺は通してもいいと思いますけどね」
後半は冬馬先輩に向かっての発言だ。
「……」
先輩は顎に手をやったまま、しばらく考え込んでいた。
その間に、男性社員が私に向き合う。
「あ、俺、田島っていいます。田島晴。タージ・マハルって覚えてね」
「すごく覚えやすい名前ですね!」
「でしょ~。なんてったって世界遺産だからね」
「無駄話をするな」
はあ、と冬馬先輩がわざとらしいため息をついた。
「それで、企画の話だが」
「俺はいいと思いますけどねえ。未来の作家を青田買い」
田島さんの話に、冬馬先輩はある程度、腹落ちしたらしい。
「……予算次第だ」
私は先輩の言葉に、一瞬遅れて反応した。
「え、つまり……」
「よかったねえ、小日向ちゃん。前向きに検討しますってさ」
「ありがとうございます!」
「予算次第だと言った。経理が無理と言ったら無理だ。それは覚悟しておけ」
「はい!」
私には、編集部の電灯が、一瞬明るくなったような錯覚があった。
先輩に、仕事として評価されたのが、何よりも嬉しい。
「……それから。企画書は自分で出せ、と伝えておけ」
先輩が私の後ろを睨むと、「ひえっ……」と、企画書を出せなかった同期が震え上がる。
「氷室ちゃんが怖がらせるからでしょ、それは」
田島さんは呆れたような声色で肩をすくめた。
私が自分の席に戻ると、編集者たちが不思議な眼差しでこちらを見つめているのに気づく。
「どうかしました?」
「いや……勇者だなと思って」
「え?」
「あの氷室さんに企画書出しに行って生き残った人、そんなに多くないよ」
「そもそも、あの人がちゃんと企画書を最後まで読んでくれたのが奇跡」
「そう……なんですか?」
「もしかして、恐怖という感情が欠落してる?」
……私、冬馬先輩を怖いと思ったこと、ないけどな。
どうして周囲がこんなに彼を恐れているのか、わからなかった。
「あの、田島さんって人は……?」
「ああ、田島さんは別格だよ」
「あの人、飄々としてるけど、氷室さんと同期だし、仕事はできるから別に怒られないんだよね」
「そうなんですね」
……そういえば、どうして冬馬先輩は、女性社員を泣かせていたんだろう?
私がその女性の席を見ると、彼女は拗ねたように頬を膨らませながら、企画書を書き直しているようだった。
――まあ、そういう経緯で、私は「氷室冬馬のお気に入り」という認識を、編集部の面々に持たれるようになったのである。
……なんだろう、この空気。
少しだけ、居心地が悪い。
冬馬先輩のデスクの前で、女子社員が泣いている。
――翌日の、それがし出版編集部に流れる冷たい空気。
先輩に企画を提出した女子編集者が、彼に詰められているのだ。
「うわ、かわいそ……」
「相変わらずキッツ~……」
編集部では、冬馬先輩の態度を見て、他の編集者が眉をひそめている。
――でも、先輩は若手のエースと呼ばれている人。
彼の許可が降りないと、企画が通らないと言われていた。
「ど、どうしよう……。あんな人に企画なんて出せないよぉ……」
私の同期が、企画書を持ったまま震えている。
……私は、キッと先輩の方を見据えた。
「私が出してくるよ」
「えっ」
同期の手から企画書を取って、先輩のデスクへ向かう。
「こ、小日向さぁん!?」
「あ、あの子、なにを……」
「泣かされて終わりだぞ!」
編集部がざわついた。
私はツカツカと歩き、デスクに座っている先輩の前で止まる。
冬馬先輩は、私の目を見つめていた。
「――こちら、お願いします」
「……見せてもらおう」
先輩は、私が差し出した企画書を受け取る。
しばらく黙り込んだまま、黒い手袋をした指で書類のページをめくり、じっと読んでいた。
編集部の面々が、固唾を飲んでそれを見守っている空気を感じる。
冬馬先輩は、企画書のページを最後まで読んでくれた。
目を閉じて、機械が情報を処理しているかのように、静止する。
……やがて、ふう……と息を細く吐いた。
「……それで?」
私は視界がパッと開けたような気分になる。
この言い方、話を聞いてくれる態勢だ。
通る可能性がある。
同時に、試されていると理解した。
「この企画書の通り、この作家さんを雑誌の特集に、ぜひ推したいです!」
先輩の鋭利な目が、私に向けられた。
「……この作家はまだ無名だ。いきなり雑誌に掲載は無理がある」
「でも、こないだ〇〇文学賞で佳作でしたし、これから伸びると思います!」
「『伸びると思う』では根拠にならない。売上の見込みは? 読者層はどこを想定している?」
先輩が矢継ぎ早に質問してくる。
これは……少なくとも却下ではない。
説得力のある論拠を示せば理解はしてくれる。
「この作家さん、SNSで固定ファンが続々と増えてきています。扱っているジャンルも、今じわじわと伸びてきていて……」
私は先輩の手にしている企画書を覗き込みながら、該当の箇所に指を差した。
「既存読者と新規層、両方狙える位置にいるんです」
「……ふむ」
冬馬先輩は、企画書を見ながら、空いた手で顎を撫でる。
これは、感触がいい、気がする。
ただの「推したい」から、「通せる企画」になっている、と思う。
「……着眼点は面白い。だが、詰めが甘い。ファンが増えていると言っても、まだ数字が……」
私と先輩が企画書を見ながらあーだこーだと議論していると、
「ちょいちょいちょい。氷室ちゃん、小日向ちゃんにだけ甘くないっすかぁ~?」
「うわびっくりした」
突然、男性社員が割り込むように話しかけてきて、私は目を丸くした。
「……甘くない。仕事の話をしているだけだが?」
「いやいや、さっき泣かせてた子と温度差違いすぎません?」
他の編集者も、口には出さないが、うんうんと頷いている。
「多分、俺が同じこと言っても聞いてくれないでしょ?」
「えっと……冬馬先輩、これが通常運転なんですけど……」
「ふーん?」
男性社員は愉快そうに口の端を吊り上げながら、冬馬先輩と私を交互に見やった。
「氷室ちゃん、仕事できる人には優しいタイプっすよね」
「……何が言いたい」
「いやぁ? 評価する相手にはちゃんと時間使うんだな~って思って」
軽口を叩きながら、男性社員は私に小声で囁く。
「ちゃんと筋通ってるっすよ、その説明」
「本当ですか?」
「うん。俺は通してもいいと思いますけどね」
後半は冬馬先輩に向かっての発言だ。
「……」
先輩は顎に手をやったまま、しばらく考え込んでいた。
その間に、男性社員が私に向き合う。
「あ、俺、田島っていいます。田島晴。タージ・マハルって覚えてね」
「すごく覚えやすい名前ですね!」
「でしょ~。なんてったって世界遺産だからね」
「無駄話をするな」
はあ、と冬馬先輩がわざとらしいため息をついた。
「それで、企画の話だが」
「俺はいいと思いますけどねえ。未来の作家を青田買い」
田島さんの話に、冬馬先輩はある程度、腹落ちしたらしい。
「……予算次第だ」
私は先輩の言葉に、一瞬遅れて反応した。
「え、つまり……」
「よかったねえ、小日向ちゃん。前向きに検討しますってさ」
「ありがとうございます!」
「予算次第だと言った。経理が無理と言ったら無理だ。それは覚悟しておけ」
「はい!」
私には、編集部の電灯が、一瞬明るくなったような錯覚があった。
先輩に、仕事として評価されたのが、何よりも嬉しい。
「……それから。企画書は自分で出せ、と伝えておけ」
先輩が私の後ろを睨むと、「ひえっ……」と、企画書を出せなかった同期が震え上がる。
「氷室ちゃんが怖がらせるからでしょ、それは」
田島さんは呆れたような声色で肩をすくめた。
私が自分の席に戻ると、編集者たちが不思議な眼差しでこちらを見つめているのに気づく。
「どうかしました?」
「いや……勇者だなと思って」
「え?」
「あの氷室さんに企画書出しに行って生き残った人、そんなに多くないよ」
「そもそも、あの人がちゃんと企画書を最後まで読んでくれたのが奇跡」
「そう……なんですか?」
「もしかして、恐怖という感情が欠落してる?」
……私、冬馬先輩を怖いと思ったこと、ないけどな。
どうして周囲がこんなに彼を恐れているのか、わからなかった。
「あの、田島さんって人は……?」
「ああ、田島さんは別格だよ」
「あの人、飄々としてるけど、氷室さんと同期だし、仕事はできるから別に怒られないんだよね」
「そうなんですね」
……そういえば、どうして冬馬先輩は、女性社員を泣かせていたんだろう?
私がその女性の席を見ると、彼女は拗ねたように頬を膨らませながら、企画書を書き直しているようだった。
――まあ、そういう経緯で、私は「氷室冬馬のお気に入り」という認識を、編集部の面々に持たれるようになったのである。
……なんだろう、この空気。
少しだけ、居心地が悪い。