そこにあったはずの愛
第十話 絵を描く理由
課題のキャンバスに向かいながら、筆が止まった。
集中してたはずなのに、気づけば手が動いてない。
らしくないな、と思いながら、椅子に背を預けた。
――
物心ついた時から、家には母がいなかった。
いないわけじゃない。
ただ、いつも仕事に出てて、帰りは遅かった。
一人で過ごす時間は、当たり前だった。
寂しいとか、そんな大層なもんじゃない。
ただ、暇だった。
暇を潰すために、絵を描き始めた。
上手くなりたいとか、そんなんじゃなかった。
ただ、時間が埋まればそれで良かった。
――
中学までは、正直きつかった。
給食のない日は、腹が減って授業どころじゃなかった。
高校に入って、すぐバイトを始めた。
少しでも、まともなもん食えるように。
友達と遊ぶ暇なんて、なかった。
恋愛とか、そういうのも縁がなかった。
そんな余裕、どこにもなかったから。
それでも、絵だけは描き続けてた。
気づいたら、特待生で大学に受かってた。
奨学金で、なんとか通えるようになった。
――
大学に入って、近くのカフェでバイトを始めた。
そこに、やけに通ってくる女がいた。
明らかに、こっちとは違う世界の人間だった。
服も、雰囲気も、纏う空気も。
なんであんな女が、こんな古いカフェに通ってんのか。
最初はただ、そう思ってただけだった。
けど、何回目かの時。
気づいたら、声をかけてた。
「ねぇ、抱かせてよ」
自分でも、なんであんな言い方をしたのか、よく分からない。
金持ちそうだから、金づるにでもなれば、と思ったのかも。
けど、それだけだったかっていうと、今でも自信がない。
断られるのが、怖かった気もする。
だったら先に、安っぽい男を演じておこうと思ったのかもしれない。
そのへんは、当時の自分に聞いても、たぶんはっきり答えられない。
ただ、驚くほど落ち着いた声で、あの人は言った。
「これから先、あなたが私以外の女を抱かないって約束するなら」
「抱かせてあげる」
その言葉に、何秒か固まった。
なんでその条件を飲んだのか、それも、うまく説明できない。
――
キャンバスに、また目を落とす。
描きかけの絵に、意識が戻る。
何を描こうとしてたのか、一瞬分からなくなった。
輪郭だけの、まだ形になってない線。
誰かの横顔に、少しだけ似ている気がした。
気のせいだろう。
そう思いながら、凛はまた筆を動かし始めた。
窓の外では、いつの間にか雨が降っていた。
課題のキャンバスに向かいながら、筆が止まった。
集中してたはずなのに、気づけば手が動いてない。
らしくないな、と思いながら、椅子に背を預けた。
――
物心ついた時から、家には母がいなかった。
いないわけじゃない。
ただ、いつも仕事に出てて、帰りは遅かった。
一人で過ごす時間は、当たり前だった。
寂しいとか、そんな大層なもんじゃない。
ただ、暇だった。
暇を潰すために、絵を描き始めた。
上手くなりたいとか、そんなんじゃなかった。
ただ、時間が埋まればそれで良かった。
――
中学までは、正直きつかった。
給食のない日は、腹が減って授業どころじゃなかった。
高校に入って、すぐバイトを始めた。
少しでも、まともなもん食えるように。
友達と遊ぶ暇なんて、なかった。
恋愛とか、そういうのも縁がなかった。
そんな余裕、どこにもなかったから。
それでも、絵だけは描き続けてた。
気づいたら、特待生で大学に受かってた。
奨学金で、なんとか通えるようになった。
――
大学に入って、近くのカフェでバイトを始めた。
そこに、やけに通ってくる女がいた。
明らかに、こっちとは違う世界の人間だった。
服も、雰囲気も、纏う空気も。
なんであんな女が、こんな古いカフェに通ってんのか。
最初はただ、そう思ってただけだった。
けど、何回目かの時。
気づいたら、声をかけてた。
「ねぇ、抱かせてよ」
自分でも、なんであんな言い方をしたのか、よく分からない。
金持ちそうだから、金づるにでもなれば、と思ったのかも。
けど、それだけだったかっていうと、今でも自信がない。
断られるのが、怖かった気もする。
だったら先に、安っぽい男を演じておこうと思ったのかもしれない。
そのへんは、当時の自分に聞いても、たぶんはっきり答えられない。
ただ、驚くほど落ち着いた声で、あの人は言った。
「これから先、あなたが私以外の女を抱かないって約束するなら」
「抱かせてあげる」
その言葉に、何秒か固まった。
なんでその条件を飲んだのか、それも、うまく説明できない。
――
キャンバスに、また目を落とす。
描きかけの絵に、意識が戻る。
何を描こうとしてたのか、一瞬分からなくなった。
輪郭だけの、まだ形になってない線。
誰かの横顔に、少しだけ似ている気がした。
気のせいだろう。
そう思いながら、凛はまた筆を動かし始めた。
窓の外では、いつの間にか雨が降っていた。