そこにあったはずの愛
第十一話 初めての一歩

エレベーターが最上階から下降していく感覚を、玲依はいつも少し嫌っていた。

一日の終わりに、少しずつ地上へと引き戻されていく感じが、まるで自分の中の何かが剥がれ落ちていくようで。

隣で彩奈が、缶コーヒーの空き缶をトートバッグに押し込みながら、他愛のない話を続けている。

玲依は相槌を打ちながらも、頭のどこかで、ずっと違うことを考えていた。

数日前の夜。

隠しきれなかった痛み。

凛の「どうかした?」という声。

あれから、何かがずっと胸の底に沈んだままだった。

――

一階に着き、自動ドアの向こうへ足を踏み出した瞬間。

視界の端に、見慣れた輪郭が映った。

玲依は、立ち止まった。

大理石のロビーの、あの無機質な冷たさの中に、不釣り合いなほど場違いな人影があった。

精一杯整えてきたのだろう格好。

けれど、スーツの行き交うこの空間の中では、その若さがどうしても際立ってしまう。

けれど、纏う空気だけは、いつもと変わらず柔らかい。

凛が、そこに立っていた。

心臓が、ひとつ大きく跳ねる。

なんで、ここに。

三年間、一度も破られたことのないルールがあった。

体だけの関係。

互いの領域には、決して踏み込まない。

そのはずだった。

なのに今、その境界線の向こう側にいたはずの人間が、こちら側に立っている。

まるで、薄い硝子に罅が入るような感覚だった。

「玲依?」

彩奈の声が、やけに遠くから聞こえた。

「知り合い?」

答えようとして、言葉が出てこない。

喉の奥が、乾いていた。

――

凛が、こちらに気づく。

一瞬、驚いたような顔をして。

それから、いつもの軽い笑みを浮かべた。

けれどその笑みの下に、隠しきれない何かが揺れているのを、玲依は見逃さなかった。

三年間、数えきれないほど見てきた顔だった。

なのに、今夜のそれは、どこか違って見えた。

体だけの関係だと、彩奈にはそう言い切った。

その相手が今、自分の職場の入り口に立っている。

閉じていたはずの世界と世界が、音もなく重なり合っていく。

その事実の重みが、じわりと肺を圧迫していく。

彩奈が何か言いかけているのが分かる。

けれど、その声はもう、玲依の耳には届かなかった。

凛が、こちらへ歩いてくる。

一歩、また一歩。

その距離が縮まるたびに、玲依の中で何かが軋んだ。

嬉しいのか、恐ろしいのか。

自分でも、分からなかった。

凛の唇が、静かに開く。

何か、言おうとしている。

夕暮れの光が差し込むロビーの中、その言葉だけが、まだ玲依には聞き取れずにいた。
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