そこにあったはずの愛
第百話「熱の行方」

味見のキスの余韻が、まだ唇に残っていた。

料理はもう、二の次になっていた。

 

凛が、こちらを見ている。

さっきまでのからかうような目じゃない。

もっと深いところを覗き込むような、静かな熱。

 

「玲依さん」

 

名前を呼ぶ声が、いつもより低い。

それだけで、分かってしまう。

 

「凛」

 

短く、名前を返した。

それだけで、十分だった。

 

 

寝室までの数歩を、どちらが誘ったのかも覚えていない。

気づけば、扉が閉まる音がしていた。

 

凛の指が、頬に触れる。

輪郭をなぞるように、慎重に。

壊れ物を扱うような手つきに、かえって息が詰まる。

 

その手が、首筋へと降りていく。

指の腹が、肌の上をゆっくりと滑る。

たったそれだけで、声にならない声が漏れた。

 

「今日は」

 

声が、途切れる。

続きを、待たなくても分かった。

 

「もう、我慢しなくていいでしょ」

 

「駄目、なんて言った覚えない」

 

思わず、そう返していた。

自分の声が、掠れていることに気づく。

 

三年間、律儀に守り続けてきた約束。

その約束が、今夜だけは意味を変える。

 

 

肩に落ちた前髪を、凛がそっと払う。

その仕草だけで、体の芯が疼いた。

 

近づく気配。

衣擦れの音が、やけに大きく聞こえる。

シーツの冷たさが、背中に広がっていく。

 

凛の重みが、覆いかぶさってくる。

体温が、少しずつ距離を詰めていく。

肌と肌のあいだにある、薄い空気の層さえもどかしい。

 

「怖い?」

 

囁くような問いに、首を振った。

怖いのとは、違う。

 

「凛の顔が、近すぎる」

 

正直にそう漏らすと、凛が小さく笑った。

笑いながらも、目だけは真剣だった。

 

これ以上近づいたら、もう戻れない。

その予感のほうが、よほど恐ろしくて、そして甘い。

 

 

指先が、鎖骨のあたりをなぞる。

その動きに合わせて、こちらの手も、凛の背中へと伸びていった。

 

服の下の熱が、掌に伝わってくる。

想像していたよりも、ずっと熱い。

 

「玲依さんの手、冷たい」

 

「凛が熱すぎるだけ」

 

軽口を叩き合う合間にも、指先は止まらない。

肩甲骨のかたち、背骨のライン、その一つひとつを確かめるように。

 

耳元で、凛の息が乱れているのが分かる。

いつもの飄々とした調子は、どこにもない。

 

「好きだよ」

 

掠れた声が、鼓膜の奥まで沈み込む。

 

「私も」

 

短く、けれど確かに。

言葉と一緒に、体温が重なった。

 

理性という名の、細い糸。

それが、静かに焼き切れていく。

 

指先が触れるたび、そこに小さな熱が灯る。

灯った熱が、次第に大きくなって、二人を包んでいく。

 

肌が触れ合うたびに、互いの鼓動が伝わってくる。

速くなっていく拍動が、もう隠しようもなかった。

 

肌の表面に、じんわりと湿り気がにじんでくる。

凛の背中も、指の下でしっとりと濡れ始めていた。

 

重なる体温のせいか、それとも別の熱のせいか。

境界が分からないまま、汗の粒が肌の上を滑り落ちていく。

 

もう、境界線なんてどこにもなかった。

体温も、吐息も、鼓動さえも、溶けて一つになっていくようだった。

 

 

窓の外で、夜がゆっくりと更けていく。

部屋の中だけ、時間の流れ方が違う。

 

三年かけて辿り着いた、体温の記憶。

これからは、何度でも重ねていける。

 

そのことが、何よりも愛おしかった。
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