そこにあったはずの愛
第九十九話「休日の台所」

無職になって、もう三週間が経つ。

毎日が休みだと知ったとき、正直どうしていいか分からなかった。

けれど今は違う。

凛の休日だけが、特別な意味を持つ。

その日だけ、時間の流れ方が変わる。

 

日曜の朝。

キッチンに立つ凛の背中を、しばらく見ていた。

包丁の音が、規則正しく響く。

危なげのない手つき。

生きるために覚えた技術なんだと、今は知っている。

 

「私もやる」

 

気づけば、そう口にしていた。

凛が振り返る。

驚いた顔のあと、すぐに笑った。

「玲依さんが?」

 

からかうような響きに、少しむっとする。

包丁を握った。

慣れない重さ。

まな板の上の人参が、いつまでも同じ形をしている。

 

「危なっかしいなあ」

 

背中に、温度が触れた。

凛の腕が、前から回ってくる。

包丁を持つ手の上に、大きな手が重なった。

 

「こう」

 

耳のすぐ近くで、声がする。

一緒に刃を落とす。

トン、トン、と音が変わっていく。

さっきまでの不格好な音じゃない。

 

凛の胸が、背中にぴったりと当たっている。

呼吸のたびに、伝わってくる。

包丁よりも、その距離のほうが気になって仕方ない。

 

「集中してください」

 

笑いを含んだ声。

分かっているのに、体が動かせない。

このまま時間が止まればいいと、本気で思う。

 

 

味見は凛の役目だった。

小皿に取った煮物を、ふうふうと冷ましている。

 

「玲依さんも」

 

差し出された箸を、素直に受け取る。

口に運んで、頷いた。

美味しい。

いつもそう思う。

 

「ついてる」

 

凛の指が、こちらの口元に伸びてくる。

止める間もなく、顔が近づいた。

指の代わりに、唇が触れる。

 

ぺろ、と小さな音。

ソースの味と、それだけじゃない何かを、確かめるように。

 

離れていく顔を、見つめた。

凛の耳が、赤い。

からかったつもりが、自分のほうが動揺している。

 

「反則でしょ、それ」

 

そう言うのが、精一杯だった。

 

 

三年かかった。

ここに辿り着くまで。

嘘も、誤解も、涙も、全部越えてきた。

 

その果てにあるのが、こんな些細な休日だということが、たまらなく愛おしい。

 

台所の湯気の向こうで、凛が笑っている。

何気ない、それだけの光景。

 

これ以上の贅沢は、たぶんもうない。
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