そこにあったはずの愛
第百二話「新しい一歩」

無職の日々にも、少しずつ影が差し始めていた。

 

最初は楽しかった。

凛との時間を、心ゆくまで味わえる毎日。

 

けれど一ヶ月も経つと、心のどこかがざわつき始める。

このままでいいのか、という声が、静かに耳の奥で響く。

 

 

「玲依さん、最近ぼーっとしてる時間増えたね」

 

夕食の後片付けをしながら、凛が言った。

隠していたつもりだったのに、あっさり見抜かれている。

 

「何か、考えてる?」

 

「これから、どうしようかなって」

 

正直にそう答えた。

凛の前でだけは、取り繕う必要がない。

 

 

「玲依さんって、秘書の仕事、好きだった?」

 

問われて、少し考えた。

 

「仕事自体は、嫌いじゃなかった」

 

「じゃあ何が嫌だったの」

 

「一人の人に、縛られること」

 

言ってから、自分でもはっとした。

言葉にして初めて、輪郭がはっきりした気がした。

 

 

一人の社長に仕える生き方。

それは、どこか、これまでの自分の在り方そのものだった。

 

誰かに認められるために、誰かの期待に応えるために、生きてきた日々。

 

もう、そんな生き方はしなくていい。

そう気づいた瞬間、視界が少し開けた気がした。

 

 

「複数の経営者を相手に、スケジュール管理とか出張手配とか、まとめて請け負う仕事があるの」

 

「フリーで、いろんな人をサポートするってこと?」

 

「そう。誰か一人に縛られるんじゃなくて」

 

凛の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「玲依さんらしいじゃん、それ」

 

その一言が、思っていたよりずっと、胸に響いた。

 

 

「向いてると思うよ。玲依さん、段取り上手だし、誰にでも公平に丁寧だし」

 

「凛が言うと、説得力ある」

 

「俺は、玲依さんの一番のファンだからね」

 

軽い口調なのに、まっすぐな言葉。

こういう時、凛はいつも一番欲しい言葉をくれる。

 

 

その夜、古い名刺入れを引っ張り出した。

秘書時代に交わした、いくつもの名刺。

 

一枚一枚を眺めながら、誰に声をかけるか考える。

一人で始める不安より、初めて自分の意思で選んだ道への高揚感のほうが、今は大きかった。

 

「一緒に、名刺のデザインとか考えようか」

 

隣に座った凛が、覗き込んでくる。

 

「凛のセンス、貸してくれる? プロの目線で見てほしい」

 

「任せて。ちゃんと考える」

 

二人で頭を寄せ合いながら、これからの話をする。

 

桐生の下で働いていた頃には、なかった感覚だった。

誰かに敷かれた道じゃなく、自分で選んだ道を、隣にいる人と一緒に歩いていく。

 

それだけで、こんなにも心が軽くなるのだと、初めて知った。
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