そこにあったはずの愛
第百四話「上代依織との対面」
玄関先で、何度も呼吸を整えた。
これほど緊張するのは、いつ以来だろう。
隣に立つ凛のほうが、よほど落ち着いて見えた。
「大丈夫だよ」
凛が、そっと手を握ってくる。
その温度に、少しだけ息が楽になった。
「玲依さんがそんなに緊張してるの、珍しい」
「凛は緊張しないの」
「するけど。玲依さんの前で情けない顔、見せたくないし」
軽い口調の奥に、ちゃんとした覚悟が滲んでいた。
その強さに、少し救われる。
玄関を開けると、真っ先に結依が飛び出してきた。
「いらっしゃい! 待ってたよ」
屈託のない笑顔。
その後ろから、継母が柔らかく微笑んでいる。
「凛さん、ですね。初めまして」
継母の声には、温かさしかなかった。
その空気に、凛の肩から少し力が抜けるのが分かった。
リビングに入ると、父がソファに座っていた。
立ち上がりもせず、じっとこちらを見ている。
「上代依織です」
短い自己紹介。
抑揚のない声に、思わず身構えた。
「赤羽凛と申します」
凛が、深く頭を下げる。
普段の飄々とした調子は、どこにもなかった。
背筋の伸びた立ち姿。
言葉選びの丁寧さ。
そのひとつひとつに、育ちの良さとは違う、自分で積み上げてきた誠実さがあった。
「座りなさい」
促されるまま、対面のソファに腰を下ろした。
沈黙が、しばらく続く。
「学生、だそうだね」
「はい。芸術大学の四年です」
「専攻は」
「油絵です」
短いやり取りが、静かに交わされる。
父の表情からは、何も読み取れなかった。
「絵で、生きていくつもりか」
直球の問いに、凛が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「まだ、決めきれていません」
正直な答えだった。
誤魔化さない態度に、隣で少し安堵する。
「就職も、視野に入れています」
「なるほど」
父が、初めて表情を動かした。
考え込むような、探るような目。
「うちの業界は、絵の分野の枠がひとつ空いている」
思いがけない言葉に、心臓が跳ねた。
「広告の仕事だ。イラストレーションでも、デザインでも、才能次第で幅は広い」
淡々とした口調。
けれどその奥に、下心のない、ただの提案としての厚意があった。
凛が、すぐには答えなかった。
視線が、一瞬こちらに向く。
「ありがたいお話ですが」
慎重に、言葉を選んでいる。
「今すぐには、お答えできません」
「理由は」
「自分の力で、決めたいので」
はっきりとした声だった。
父の目に、微かな驚きが浮かぶ。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
コネで決めさせたくないという、自分の中の密かな願いを、凛が代わりに言葉にしてくれた気がした。
父は、しばらく凛を見つめていた。
「悪くない返事だ」
短く、そう言った。
それが、精一杯の評価なのだと、伝わってきた。
その後の食事は、拍子抜けするほど穏やかに進んだ。
結依が場を明るくし、継母が気を配り、父も時折、業界の話を交えて凛に問いを重ねる。
帰り道、凛の横顔を見つめた。
「疲れた?」
「少し。でも、思ってたより悪くなかった」
凛が、笑う。
「玲依さんのお父さん、厳しいけど。ちゃんと見てくれる人だね」
その一言に、これまでの父への複雑な想いが、少しだけ緩んだ気がした。
結論はまだ出ていない。
けれど、確かな一歩が、今日、刻まれた。
そのことだけは、はっきりと分かっていた。
玄関先で、何度も呼吸を整えた。
これほど緊張するのは、いつ以来だろう。
隣に立つ凛のほうが、よほど落ち着いて見えた。
「大丈夫だよ」
凛が、そっと手を握ってくる。
その温度に、少しだけ息が楽になった。
「玲依さんがそんなに緊張してるの、珍しい」
「凛は緊張しないの」
「するけど。玲依さんの前で情けない顔、見せたくないし」
軽い口調の奥に、ちゃんとした覚悟が滲んでいた。
その強さに、少し救われる。
玄関を開けると、真っ先に結依が飛び出してきた。
「いらっしゃい! 待ってたよ」
屈託のない笑顔。
その後ろから、継母が柔らかく微笑んでいる。
「凛さん、ですね。初めまして」
継母の声には、温かさしかなかった。
その空気に、凛の肩から少し力が抜けるのが分かった。
リビングに入ると、父がソファに座っていた。
立ち上がりもせず、じっとこちらを見ている。
「上代依織です」
短い自己紹介。
抑揚のない声に、思わず身構えた。
「赤羽凛と申します」
凛が、深く頭を下げる。
普段の飄々とした調子は、どこにもなかった。
背筋の伸びた立ち姿。
言葉選びの丁寧さ。
そのひとつひとつに、育ちの良さとは違う、自分で積み上げてきた誠実さがあった。
「座りなさい」
促されるまま、対面のソファに腰を下ろした。
沈黙が、しばらく続く。
「学生、だそうだね」
「はい。芸術大学の四年です」
「専攻は」
「油絵です」
短いやり取りが、静かに交わされる。
父の表情からは、何も読み取れなかった。
「絵で、生きていくつもりか」
直球の問いに、凛が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「まだ、決めきれていません」
正直な答えだった。
誤魔化さない態度に、隣で少し安堵する。
「就職も、視野に入れています」
「なるほど」
父が、初めて表情を動かした。
考え込むような、探るような目。
「うちの業界は、絵の分野の枠がひとつ空いている」
思いがけない言葉に、心臓が跳ねた。
「広告の仕事だ。イラストレーションでも、デザインでも、才能次第で幅は広い」
淡々とした口調。
けれどその奥に、下心のない、ただの提案としての厚意があった。
凛が、すぐには答えなかった。
視線が、一瞬こちらに向く。
「ありがたいお話ですが」
慎重に、言葉を選んでいる。
「今すぐには、お答えできません」
「理由は」
「自分の力で、決めたいので」
はっきりとした声だった。
父の目に、微かな驚きが浮かぶ。
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
コネで決めさせたくないという、自分の中の密かな願いを、凛が代わりに言葉にしてくれた気がした。
父は、しばらく凛を見つめていた。
「悪くない返事だ」
短く、そう言った。
それが、精一杯の評価なのだと、伝わってきた。
その後の食事は、拍子抜けするほど穏やかに進んだ。
結依が場を明るくし、継母が気を配り、父も時折、業界の話を交えて凛に問いを重ねる。
帰り道、凛の横顔を見つめた。
「疲れた?」
「少し。でも、思ってたより悪くなかった」
凛が、笑う。
「玲依さんのお父さん、厳しいけど。ちゃんと見てくれる人だね」
その一言に、これまでの父への複雑な想いが、少しだけ緩んだ気がした。
結論はまだ出ていない。
けれど、確かな一歩が、今日、刻まれた。
そのことだけは、はっきりと分かっていた。