そこにあったはずの愛
第百五話「迷いの行き先」
キャンパスの空気が、変わり始めている。
周りの友人たちが、次々とスーツ姿になっていく。
エントリーシート、面接、内定。
聞こえてくる単語のひとつひとつが、どこか他人事のように響いていた。
「赤羽くん」
声をかけられて顔を上げると、大江麻由香が立っていた。
授業終わりに、廊下で偶然会っただけの間柄。
「就活、進んでる?」
「まあ、それなりに」
「私は、もう終わった」
淡々とした口調。
深追いする気はなさそうだった。
そのまま立ち去ろうとする背中に、思わず声をかけていた。
「大江さん、少し時間ある?」
意外そうな顔をされた。
これまで、こちらから話しかけたことなど、ほとんどなかったから。
学食の隅の席で、向かい合って座った。
「珍しいね。赤羽くんの方から」
「相談したいことがあって」
「私に?」
不思議そうな顔。
けれど、断る様子はなかった。
「玲依さんのお父さんから、広告の仕事どうだって言われて」
「へえ」
麻由香の目が、少し細くなる。
「コネということ?」
「そう言われると、それまでなんだけど」
「で、どうするの」
「まだ、答え出せてない」
「なんで迷ってるの」
麻由香の声は、静かだった。
けれど、逃げを許さない冷静さがあった。
「絵、続けたいんでしょう」
図星を突かれて、言葉に詰まった。
「続けたいけど」
「けど、何」
「絵だけじゃ、食べていけるか分からないし」
「それが、本当の理由?」
一瞬、何も言えなかった。
麻由香の視線が、まっすぐこちらに向いている。
感情を差し挟まない、けれど的確な目だった。
「赤羽くんが、玲依さんに迷惑をかけたくないと思ってるだけじゃない」
胸の奥を、正確に突かれた。
「絵で食べていけなくて、養ってもらうみたいな形になるのが、嫌なんじゃない」
「……そうかもしれない」
認めるのに、時間がかかった。
「でも」
麻由香が、少し声を落とした。
「それは、絵から逃げる理由にはならないと思う」
痛いところを、また突かれる。
「私、以前、結依さんに『あなたの入る隙はない』って言ったことがある」
「そうだったんだ」
初めて聞く話だった。
自分の知らないところで、そんなやり取りがあったことに、少し驚く。
「あの時、あなたの絵を、少しだけ見せてもらったことがあった。真剣だった」
淡々とした言葉の中に、確かな評価が滲んでいた。
「好きなものを、生活のためという理由だけで手放していいの」
言葉が、出てこなかった。
自分の中で、ずっと蓋をしていた本音。
絵を、本当は諦めたくない。
けれど同時に、玲依に負担をかけたくないという気持ちも、嘘じゃなかった。
二つの気持ちが、頭の中でぶつかり合っている。
「答えは、急がなくていいと思う」
麻由香が、静かに言った。
「ただ、逃げるのと、選ぶのは違うから。そこだけは、区別した方がいいと思う」
その言葉が、静かに胸に落ちていった。
「ありがとう」
「別に。同級生として、当然のことを言っただけ」
素っ気ない返事。
けれどその奥に、突き放さない距離の取り方があった。
大学を出る頃には、夕陽が空を赤く染めていた。
答えは、まだ出ていない。
けれど、迷いの正体だけは、はっきりと見えた気がした。
逃げているのか、選んでいるのか。
その境界線を、自分の手で、きちんと引かなければいけない。
キャンパスの空気が、変わり始めている。
周りの友人たちが、次々とスーツ姿になっていく。
エントリーシート、面接、内定。
聞こえてくる単語のひとつひとつが、どこか他人事のように響いていた。
「赤羽くん」
声をかけられて顔を上げると、大江麻由香が立っていた。
授業終わりに、廊下で偶然会っただけの間柄。
「就活、進んでる?」
「まあ、それなりに」
「私は、もう終わった」
淡々とした口調。
深追いする気はなさそうだった。
そのまま立ち去ろうとする背中に、思わず声をかけていた。
「大江さん、少し時間ある?」
意外そうな顔をされた。
これまで、こちらから話しかけたことなど、ほとんどなかったから。
学食の隅の席で、向かい合って座った。
「珍しいね。赤羽くんの方から」
「相談したいことがあって」
「私に?」
不思議そうな顔。
けれど、断る様子はなかった。
「玲依さんのお父さんから、広告の仕事どうだって言われて」
「へえ」
麻由香の目が、少し細くなる。
「コネということ?」
「そう言われると、それまでなんだけど」
「で、どうするの」
「まだ、答え出せてない」
「なんで迷ってるの」
麻由香の声は、静かだった。
けれど、逃げを許さない冷静さがあった。
「絵、続けたいんでしょう」
図星を突かれて、言葉に詰まった。
「続けたいけど」
「けど、何」
「絵だけじゃ、食べていけるか分からないし」
「それが、本当の理由?」
一瞬、何も言えなかった。
麻由香の視線が、まっすぐこちらに向いている。
感情を差し挟まない、けれど的確な目だった。
「赤羽くんが、玲依さんに迷惑をかけたくないと思ってるだけじゃない」
胸の奥を、正確に突かれた。
「絵で食べていけなくて、養ってもらうみたいな形になるのが、嫌なんじゃない」
「……そうかもしれない」
認めるのに、時間がかかった。
「でも」
麻由香が、少し声を落とした。
「それは、絵から逃げる理由にはならないと思う」
痛いところを、また突かれる。
「私、以前、結依さんに『あなたの入る隙はない』って言ったことがある」
「そうだったんだ」
初めて聞く話だった。
自分の知らないところで、そんなやり取りがあったことに、少し驚く。
「あの時、あなたの絵を、少しだけ見せてもらったことがあった。真剣だった」
淡々とした言葉の中に、確かな評価が滲んでいた。
「好きなものを、生活のためという理由だけで手放していいの」
言葉が、出てこなかった。
自分の中で、ずっと蓋をしていた本音。
絵を、本当は諦めたくない。
けれど同時に、玲依に負担をかけたくないという気持ちも、嘘じゃなかった。
二つの気持ちが、頭の中でぶつかり合っている。
「答えは、急がなくていいと思う」
麻由香が、静かに言った。
「ただ、逃げるのと、選ぶのは違うから。そこだけは、区別した方がいいと思う」
その言葉が、静かに胸に落ちていった。
「ありがとう」
「別に。同級生として、当然のことを言っただけ」
素っ気ない返事。
けれどその奥に、突き放さない距離の取り方があった。
大学を出る頃には、夕陽が空を赤く染めていた。
答えは、まだ出ていない。
けれど、迷いの正体だけは、はっきりと見えた気がした。
逃げているのか、選んでいるのか。
その境界線を、自分の手で、きちんと引かなければいけない。