そこにあったはずの愛
番外編1
番外編1話「パジャマ」

朝、玄関先で見送られた。

 

「今日、遅くなるから」

 

鞄を肩にかけながら、凛が言う。

 

「先に寝てていいよ」

 

「うん、分かった」

 

軽いやり取りを交わして、扉が閉まる。

同居を始めてから、こういう小さなすれ違いも、少しずつ増えてきた。

 

 

夕食は、一人分だけ作った。

味付けが、いつもより薄くなった気がする。

 

シャワーを浴びて、部屋着に着替えて、ソファに腰を下ろす。

ノートパソコンを開き、明日のクライアントのスケジュールを確認した。

出張の手配、来客の時間調整。

淡々とした作業をこなしながら、時々テレビに目をやる。

 

 

時計を見ると、十一時半を回っていた。

 

もう寝ようか。

そう思ったけれど、体が動かなかった。

 

今日は、なんとなく、凛を待ちたい気分だった。

理由なんてない。

ただ、帰ってきた時に、起きていたいと思った。

 

 

けれど、日頃の疲れが、じわじわと押し寄せてくる。

ソファに深く座り直した瞬間、瞼が重くなった。

 

抗おうとしたけれど、うまくいかなかった。

 

 

ふと、視線がソファの端に落ちた。

朝、凛が脱いでいったままのパジャマが、無造作にかけられている。

 

手に取った。

 

理由も考えず、そのまま抱き寄せていた。

 

 

ふわりと、凛の匂いがした。

 

その匂いに包まれた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。

眠気が、一気に押し寄せてきた。

 

抗う間もなく、意識が沈んでいった。

 

 

 

 

玄関の鍵を、静かに回した。

 

「先に寝てて」

 

そう声をかけて出たから、起こさないように、なるべく音を立てないよう気をつけた。

 

けれど、リビングの明かりが、まだ煌々とついていた。

 

 

不思議に思いながら、そっと近づく。

 

ソファに、玲依が横たわっていた。

 

腕の中に、何かを抱きしめている。

目を凝らすと、それは自分のパジャマだった。

 

 

一瞬、時間が止まった気がした。

 

眠っている玲依の顔は、いつもより無防備で、頬がわずかに赤らんでいる。

自分のパジャマを、まるで宝物のように抱きしめて眠るその姿に、胸の奥が、じわりと熱くなった。

 

 

音を立てないよう、ソファの横に座り込んだ。

 

そっと、頭に手を伸ばす。

柔らかい髪を、指先で梳くように撫でた。

 

眠る顔を、飽きることなく眺め続けた。

こんな時間が、これからもずっと続いていくのだと思うと、それだけで満たされた気持ちになる。

 

 

十分、二十分。

時間の感覚が、どこかへ消えていった。

 

三十分ほど経った頃、玲依の瞼が、ゆっくりと開いた。

 

 

「……凛?」

 

眠たげな声。

まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした目で、こちらを見上げてくる。

 

「いつ、帰って来たの」

 

「んー、三十分くらい前かな」

 

 

玲依の目が、少しずつはっきりとしていく。

 

「三十分も、こうしてたの」

 

「うん」

 

素直に、頷いた。

 

「だって、俺のパジャマ抱きしめて寝てる玲依さんが、可愛くて」

 

 

その言葉に、玲依の表情が固まった。

視線が、自分の腕の中に落ちる。

 

腕の中にあるものに気づいた瞬間、顔が、みるみる赤くなっていった。

 

「……え」

 

「気づいてなかったんだ」

 

思わず、笑いがこぼれた。

 

 

「恥ずかしい」

 

小さな声で、玲依が呟く。

パジャマを抱きしめたまま、顔を隠すように俯いた。

 

その仕草が、たまらなく愛おしかった。

 

 

「そんなに、俺のこと好きなの?」

 

いたずらっぽく、聞いてみた。

 

 

一瞬の間があった。

 

「当たり前でしょう」

 

顔を上げた玲依が、迷いなく、そう言い切った。

 

その真っ直ぐな答えに、胸が熱くなる。

 

 

自然と、顔が近づいていった。

 

「玲依さん」

 

名前を呼んで、そっと唇を重ねた。

 

 

優しいだけのキス。

けれど、そこに込めた気持ちは、これまでのどんな瞬間よりも、深く、静かに満ちていた。

 

 

離れた後、玲依が小さく笑った。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

三十分前から、ずっと言いたかった言葉を、ようやく交わせた気がした。

 

 

パジャマを抱きしめたまま眠っていた玲依の姿を、これから先も、きっと忘れないと思った。

何気ない夜が、こんなにも愛おしい記憶になるなんて、思ってもみなかった。
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