そこにあったはずの愛
番外編2話の2「聞こえてきた声」

その日は、いつも通りの授業終わりだった。

 

荷物をまとめていると、同じ学部の男子学生が数人、こちらに近づいてきた。

顔と名前は知っているが、親しく話したことはない相手だった。

 

 

「なあ、赤羽」

 

軽い調子で、声をかけられる。

 

「最近、送迎付きなんだって?」

 

 

答えに迷っているうちに、続けざまに言葉が飛んできた。

 

「お前、顔イイもんな」

 

にやにやとした笑い。

嫌な予感が、背筋を這った。

 

「その顔で、体も売ってんの?」

 

 

一瞬、何を言われたのか、理解が追いつかなかった。

 

周りの数人が、小さく笑う気配がした。

悪意なのか、ただの悪ふざけなのか、判然としない空気。

 

 

「は?」

 

声が、震えた。

 

怒りが、腹の底から一気にせり上がってくる。

 

「今、なんて言った」

 

 

「いや、冗談だって」

 

相手が、へらへらと笑いながら手を振る。

 

「そんなにムキになるなよ」

 

 

冗談で済まされる言葉じゃなかった。

三年間、必死に守ってきたものを、土足で踏みにじられた気がした。

 

拳を、無意識に握りしめていた。

 

 

「もう一回、言ってみろよ」

 

声のトーンが、自分でも分かるくらい低くなっていた。

 

周りの空気が、一気に張り詰める。

 

 

「くだらない」

 

不意に、割って入る声があった。

 

 

振り返ると、麻由香が立っていた。

 

腕を組み、冷ややかな目で、からかっていた男子学生を見据えている。

 

「下品な冗談言う前に、自分の頭の中、心配した方がいいんじゃない」

 

 

淡々とした声だった。

けれど、その言葉には、有無を言わせない鋭さがあった。

 

「な、なんだよ急に」

 

「事実でしょう。人の関係を、勝手に下世話な言葉で片付けようとするの、品性の問題だと思うけど」

 

 

言い返せず、男子学生が視線を逸らす。

 

「別に、そんなつもりじゃ」

 

「つもりがなくても、言った言葉は消えないから」

 

 

冷静な正論に、その場の空気が、急速にしぼんでいった。

 

「行くよ、赤羽くん」

 

麻由香が、こちらの腕を軽く引く。

 

 

その場を離れる間際、背後で、気まずそうな沈黙が広がっているのが分かった。

 

 

廊下を歩きながら、まだ、拳の震えが収まらなかった。

 

「大丈夫?」

 

麻由香が、横目でこちらを見る。

 

「大丈夫、じゃないけど」

 

正直に、そう答えた。

 

 

「ああいう奴、たまにいるから。気にする価値もない」

 

「分かってる。分かってるけど」

 

 

言葉が、うまく続かなかった。

 

分かっていても、消化できない怒りがある。

 

 

玲依が聞いたら、どう思うだろう。

自分のせいで、こんな言葉を投げつけられていると知ったら。

 

その想像だけで、また別の重さが、胸にのしかかってきた。

 

 

「ありがとう」

 

短く、麻由香に礼を言った。

 

「別に。同級生として、当然のことをしただけ」

 

いつもと同じ、素っ気ない返事。

 

けれどその冷静さに、今は、心底救われていた。

 

 

その日の帰り道、いつもより、足取りが重かった。

 

消化しきれない怒りと、玲依にどう向き合えばいいのか分からない気持ちを、一人で抱えたまま、夜道を歩いた。
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