そこにあったはずの愛
番外編4「出会った日」凛編
その日は、何の変哲もない、平日のシフトだった。
いつも通り、カウンターの中で、注文をこなしていく。
代わり映えのしない一日になるはずだった。
ドアベルが鳴った。
顔を上げた瞬間、時間が止まった気がした。
一人の女性が、店に入ってきた。
歩き方から、もう違った。
背筋の伸びた立ち姿、迷いのない足取り。
まるで、その場所だけ、空気の密度が変わったようだった。
整った顔立ち。
けれど、それだけじゃない。
纏っている空気そのものが、これまで見てきた誰とも違っていた。
品格、というのだろうか。
作られたものではない、生まれ持った何かが、彼女の輪郭を縁取っていた。
注文を受ける間、まともに目を合わせられなかった。
心臓が、おかしいくらい騒がしかった。
こんな感覚は、初めてだった。
それから、彼女は、何度か店に現れるようになった。
名前も、素性も、何も知らないまま。
けれど気づけば、彼女が来る時間を、無意識に待つようになっていた。
視線が、勝手に追ってしまう。
カウンターの向こうで作業をしながら、目の端で、彼女の一挙一動を追いかけている自分がいた。
これは、何だろう。
初めての感覚に、戸惑った。
これまで、誰に対しても、こんな風に心が揺さぶられたことはなかった。
はっきりと、自覚した瞬間があった。
彼女が、ふとした瞬間に見せた、微かな笑み。
その一瞬に、心臓を鷲掴みにされた気がした。
好きだ。
その言葉が、抗いようもなく、胸の中に広がっていった。
けれど同時に、頭の奥で、冷静な自分が警鐘を鳴らしていた。
この人は、自分とは、生きている世界が違う。
服装、持ち物、纏う空気。
すべてが、これまでの自分の生活とは、かけ離れていた。
深入りすれば、いずれ知られる。
古いアパート、貧しい生活、母のこと。
そのすべてを、この人の前に晒すことになる。
想像するだけで、足がすくんだ。
これまで、誰にも本気を見せずにきた。
誰にも、深入りさせずにきた。
その処世術が、今、初めて崩れそうになっている。
だからこそ、余計に、守らなければいけないと思った。
本気だと、絶対に悟られてはいけない。
もし本気を見せて、断られたら。
住む世界の違いを、はっきりと突きつけられたら。
その痛みに、耐えられる自信がなかった。
だから、決めた。
軽い自分を演じよう。
本気じゃないふりをして、傷つくことから、自分を守ろう。
打算だけの、軽い関係。
そういう物語を、自分自身に言い聞かせることにした。
その日、彼女が会計を終えて、店を出ようとした時だった。
足が、勝手に動いていた。
軽い自分を演じよう。
さっき決めたばかりの覚悟が、頭の中で繰り返される。
本気を悟られるくらいなら、誰よりも軽薄な言葉で、この気持ちを覆い隠してしまえばいい。
「ねぇ」
呼び止めた声に、彼女が振り返る。
心臓が、破裂しそうなほど激しく鳴っていた。
けれど、顔には、できる限り軽い笑みを貼りつけた。
「抱かせてよ」
口にした瞬間、自分でも驚くほど、軽薄な響きになった。
本音とは、正反対の言葉。
本気で好きだと、口が裂けても言えなかった。
だから、一番遠いところにある言葉を選んだ。
彼女は、驚く様子もなかった。
ただ、じっと、値踏みするようにこちらを見つめている。
その視線の冷たさに、指先が冷えていくのが分かった。
断られる。
そう覚悟した。
「これから先、あなたが私以外の女を抱かないって約束するなら」
平坦な声だった。
まるで、契約の条件を提示するような。
一瞬、意味を飲み込むのに時間がかかった。
そんなはずはないのに、心のどこかで、勝手に喜んでいる自分がいた。
繋がれる。
理由なんて、なんでもいい。
たとえそれが、体だけの、歪んだ約束だったとしても。
「いいよ」
震えそうになる声を、必死に抑えて、そう答えた。
「お姉さん以外、抱かない。他も、見ない」
つけ加えた一言に、自分でも遅れて気づいた。
条件として求められたのは、抱かないという約束だけだったのに。
見ない、という言葉は、誰にも求められていない、ただの本音だった。
軽薄な笑みの奥に、うっかりこぼれ落ちた、剥き出しの気持ち。
彼女が、それに気づいたかどうかは、分からなかった。
軽薄な笑みの下で、心臓が、これ以上ないほど激しく脈打っていた。
その返事を聞いた彼女の口元に、初めて、微かな笑みが浮かんだ。
「じゃあ、いいよ」
短く、そう言った。
それだけで、契約は成立したらしかった。
この瞬間から、すべてが始まった。
好きだと、一度も言えないまま。
体だけの約束という、歪んだ形で繋がった、この関係。
普通の始まりだったなら、きっと、こんなにも歪まなかった。
けれど、この歪んだ始まり方でしか、あの時の自分たちには、繋がる術がなかったのだと、今なら分かる。
誰にも見せなかったはずの本音を、一番歪んだ言葉に変えて、差し出した日。
それが、すべての始まりだった。
その日は、何の変哲もない、平日のシフトだった。
いつも通り、カウンターの中で、注文をこなしていく。
代わり映えのしない一日になるはずだった。
ドアベルが鳴った。
顔を上げた瞬間、時間が止まった気がした。
一人の女性が、店に入ってきた。
歩き方から、もう違った。
背筋の伸びた立ち姿、迷いのない足取り。
まるで、その場所だけ、空気の密度が変わったようだった。
整った顔立ち。
けれど、それだけじゃない。
纏っている空気そのものが、これまで見てきた誰とも違っていた。
品格、というのだろうか。
作られたものではない、生まれ持った何かが、彼女の輪郭を縁取っていた。
注文を受ける間、まともに目を合わせられなかった。
心臓が、おかしいくらい騒がしかった。
こんな感覚は、初めてだった。
それから、彼女は、何度か店に現れるようになった。
名前も、素性も、何も知らないまま。
けれど気づけば、彼女が来る時間を、無意識に待つようになっていた。
視線が、勝手に追ってしまう。
カウンターの向こうで作業をしながら、目の端で、彼女の一挙一動を追いかけている自分がいた。
これは、何だろう。
初めての感覚に、戸惑った。
これまで、誰に対しても、こんな風に心が揺さぶられたことはなかった。
はっきりと、自覚した瞬間があった。
彼女が、ふとした瞬間に見せた、微かな笑み。
その一瞬に、心臓を鷲掴みにされた気がした。
好きだ。
その言葉が、抗いようもなく、胸の中に広がっていった。
けれど同時に、頭の奥で、冷静な自分が警鐘を鳴らしていた。
この人は、自分とは、生きている世界が違う。
服装、持ち物、纏う空気。
すべてが、これまでの自分の生活とは、かけ離れていた。
深入りすれば、いずれ知られる。
古いアパート、貧しい生活、母のこと。
そのすべてを、この人の前に晒すことになる。
想像するだけで、足がすくんだ。
これまで、誰にも本気を見せずにきた。
誰にも、深入りさせずにきた。
その処世術が、今、初めて崩れそうになっている。
だからこそ、余計に、守らなければいけないと思った。
本気だと、絶対に悟られてはいけない。
もし本気を見せて、断られたら。
住む世界の違いを、はっきりと突きつけられたら。
その痛みに、耐えられる自信がなかった。
だから、決めた。
軽い自分を演じよう。
本気じゃないふりをして、傷つくことから、自分を守ろう。
打算だけの、軽い関係。
そういう物語を、自分自身に言い聞かせることにした。
その日、彼女が会計を終えて、店を出ようとした時だった。
足が、勝手に動いていた。
軽い自分を演じよう。
さっき決めたばかりの覚悟が、頭の中で繰り返される。
本気を悟られるくらいなら、誰よりも軽薄な言葉で、この気持ちを覆い隠してしまえばいい。
「ねぇ」
呼び止めた声に、彼女が振り返る。
心臓が、破裂しそうなほど激しく鳴っていた。
けれど、顔には、できる限り軽い笑みを貼りつけた。
「抱かせてよ」
口にした瞬間、自分でも驚くほど、軽薄な響きになった。
本音とは、正反対の言葉。
本気で好きだと、口が裂けても言えなかった。
だから、一番遠いところにある言葉を選んだ。
彼女は、驚く様子もなかった。
ただ、じっと、値踏みするようにこちらを見つめている。
その視線の冷たさに、指先が冷えていくのが分かった。
断られる。
そう覚悟した。
「これから先、あなたが私以外の女を抱かないって約束するなら」
平坦な声だった。
まるで、契約の条件を提示するような。
一瞬、意味を飲み込むのに時間がかかった。
そんなはずはないのに、心のどこかで、勝手に喜んでいる自分がいた。
繋がれる。
理由なんて、なんでもいい。
たとえそれが、体だけの、歪んだ約束だったとしても。
「いいよ」
震えそうになる声を、必死に抑えて、そう答えた。
「お姉さん以外、抱かない。他も、見ない」
つけ加えた一言に、自分でも遅れて気づいた。
条件として求められたのは、抱かないという約束だけだったのに。
見ない、という言葉は、誰にも求められていない、ただの本音だった。
軽薄な笑みの奥に、うっかりこぼれ落ちた、剥き出しの気持ち。
彼女が、それに気づいたかどうかは、分からなかった。
軽薄な笑みの下で、心臓が、これ以上ないほど激しく脈打っていた。
その返事を聞いた彼女の口元に、初めて、微かな笑みが浮かんだ。
「じゃあ、いいよ」
短く、そう言った。
それだけで、契約は成立したらしかった。
この瞬間から、すべてが始まった。
好きだと、一度も言えないまま。
体だけの約束という、歪んだ形で繋がった、この関係。
普通の始まりだったなら、きっと、こんなにも歪まなかった。
けれど、この歪んだ始まり方でしか、あの時の自分たちには、繋がる術がなかったのだと、今なら分かる。
誰にも見せなかったはずの本音を、一番歪んだ言葉に変えて、差し出した日。
それが、すべての始まりだった。