そこにあったはずの愛
番外編6「契約が始まる夜」

◇玲依◇

 

経験は、これまでにもあった。

 

誰と、と聞かれても、はっきり思い出せないほど、意味のない夜ばかりだった。

だから、今日も、同じはずだった。

 

 

ホテルの一室、窓の外に沈んでいく夕陽を見ながら、なぜか、いつもと違う落ち着かなさがあった。

 

手慣れているはずの自分が、こんなにも意識してしまうのは、初めてだった。

 

 

好きだ、とは、認めていない。

自分自身にすら、その言葉を許していなかった。

 

けれど、目の前にいる相手が、これまでの誰とも違う存在だということだけは、否定しようがなかった。

 

 

ノックの音がして、扉が開く。

 

凛が、そこに立っていた。

 

 

いつもの軽い笑みの奥に、微かな硬さが見える。

緊張しているのだと、すぐに分かった。

 

けれど、指摘はしなかった。

それを口にすることも、この契約には含まれていない気がした。

 

 

近づいてくる気配。

触れる指先が、いつもより、ほんの少し冷たかった。

 

その冷たさに、逆に、こちらの体温が上がっていくのを感じた。

 

 

 

 

◇凛◇

 

初めての緊張が、体の隅々にまで行き渡っていた。

 

けれど、それ以上に大きかったのは、別の緊張だった。

 

好きな人との、初めての夜。

その特別さを、絶対に悟られてはいけない。

 

 

快楽のためだけの、ただの行為。

そう装わなければならなかった。

 

内側では、まったく違う感情が、渦を巻いているというのに。

 

 

触れる手つきが、ぎこちないことに、自分でも気づいていた。

 

経験者らしく振る舞おうとすればするほど、余計に不器用になっていく。

 

 

それでも、必死に取り繕った。

軽い態度、軽い言葉。

すべてが、演技だった。

 

 

玲依の指先が、頬に触れる。

その優しさに、思わず本音が漏れそうになって、慌てて飲み込んだ。

 

好きだと、言いたかった。

これが、特別な夜なのだと、伝えたかった。

 

けれど、その言葉は、決して口にしてはいけないものだった。

 

 

 

 

◇玲依◇

 

凛の不器用さが、行為の端々から伝わってきた。

 

経験の少なさを、隠しきれていない。

けれど、それを指摘することはしなかった。

 

代わりに、その不器用さの奥にある何かに、静かに気づき始めていた。

 

 

これは、本当に、ただの契約なのだろうか。

 

疑問が、頭の片隅をよぎる。

けれど、その疑問を、深く追及することはしなかった。

 

追及すれば、この均衡が崩れてしまう気がしたから。

 

 

触れ合う体温。

絡む吐息。

 

言葉にはできない何かが、確かにそこにあった。

 

 

 

 

行為が終わったあと、静寂だけが、部屋を満たしていた。

 

隣で、凛が、静かに呼吸を整えている。

その横顔を、しばらく見つめた。

 

 

「私以外の女、抱かないでね」

 

念を押すような、事務的な口調で、そう言った。

 

「もちろん」

 

軽く投げるように、そう答えた。

けれど、声が、微かに震えていた。

 

その震えの中に、言葉にできない本心が、確かに紛れていた。

 

 

表面上は、ただの確認事項。

 

けれど、それが、これから続いていく約束の、最初の夜だった。

 

 

窓の外は、すっかり夜になっていた。

 

誰にも言えない特別さを、それぞれの胸の内だけに、そっとしまい込んで。

その夜は、静かに更けていった。
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