そこにあったはずの愛
番外編8-1「来なかった夜」玲依編

朝、いつものメッセージが届いた。

 

『今日、行っていい?』

 

合鍵は、もう随分前に渡してある。

わざわざ聞く必要なんて、どこにもないはずだった。

 

それでも、凛は律儀に、毎回そう聞いてきた。

 

 

『9時で』

 

時間だけを、短く返した。

 

 

これまで、遅れたことはあっても、五分、十分程度だった。

三十分を超えて遅れたことは、一度もなかった。

 

だから、九時を過ぎても凛が現れなかった時、最初は、ただの偶然だと思っていた。

 

 

九時十五分。

九時三十分。

 

時計を見る回数が、増えていった。

 

 

心配していたのは、凛の身に何かあったのかということでは、なかった。

 

もう、来ないのではないか。

 

そんな考えが、じわじわと、胸の中に広がっていった。

契約が、終わるのではないか、という不安だった。

 

 

スマホを、何度も手に取った。

 

『どうしたの?』

 

打ちかけて、消した。

心配しているように見えるのが、嫌だった。

 

『都合悪くなった?』

 

それも、違う気がした。

まるで、契約を確認するような、冷たい響きに思えた。

 

 

結局、何も送れなかった。

 

こんなにも、凛が来ないというだけの事実が、自分の心をこれほど掻き乱すとは、思ってもみなかった。

 

 

体だけの関係。

そのはずだった。

 

なのに今、胸の中を占めているのは、身体的な欲求ではなく、もっと別の、名前のつけられない不安だった。

 

 

一時間が過ぎた頃。

 

玄関の鍵が回る音がした。

 

 

心臓が、跳ねた。

安堵と、それを上回る戸惑いが、同時に押し寄せてくる。

 

 

リビングのドアが、開いた。

 

凛が、そこに立っていた。

その姿を見た瞬間、頬が、僅かに緩んだ。

 

無意識の反応だった。

自分でも、気づいていなかった。

 

すぐに、表情を引き締め直す。

何も言わず、いつも通りの軽い笑みを浮かべている凛を、努めて平静に見つめた。

遅れたことへの謝罪も、理由も、何一つ口にしなかった。

 

 

「遅くなった」

 

それだけ言って、靴を脱ぎ始める。

 

まるで、いつもと変わらない、当たり前の夜のように。

 

 

まだ、契約は続くのだ。

 

その事実に、まず、安堵した自分がいた。

 

 

けれど同時に、胸の奥が、鈍く痛んだ。

 

言い訳の一つもしない、その態度。

一時間、何をしていたのかすら、教えてもらえない距離感。

 

対等な契約なら、それでいいはずだった。

理由を求める権利なんて、最初から持っていなかった。

 

 

「遅い」

 

短く、それだけを口にした。

 

「ごめん」

 

軽い調子の謝罪。

それ以上の説明は、やはり、なかった。

 

 

「シャワー、浴びてきて」

 

いつも通りの一言をかけると、凛が、頷いて浴室に向かった。

その後ろ姿を見送りながら、まだ、頭の片隅では、あの一時間の不安が、燻り続けていた。

 

 

もし、本当に来なかったら。

 

そうなった時、自分は、どうするつもりだったのだろう。

追いかけることも、確かめることもできないまま、ただ、この関係の終わりを、黙って受け入れるしかなかったのだろうか。

 

 

答えの出ない問いを抱えたまま、その夜は、いつも通りに、静かに過ぎていった。
< 123 / 126 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop