そこにあったはずの愛
番外編8-2「来なかった夜」凛編
その日は、工事現場の警備のバイトだった。
玲依のマンションからは、離れた場所を選んでいる。
カフェ以外のバイトは、絶対に、玲依の生活圏に近づけないようにしていた。
見つかるわけにはいかなかった。
八時少し前。
「赤羽、交代のやつが遅れるらしいから、残ってくれ」
現場責任者から、有無を言わさない口調で言われた。
断れる立場じゃなかった。
「分かりました」
短く答えて、持ち場に戻った。
けれど、いくら待っても、交代は来なかった。
腕時計を見るたび、時間だけが過ぎていく。
八時半。
八時四十五分。
気づけば、九時が目前に迫っていた。
スマホを取り出しかけた。
遅れる連絡を、入れようか。
けれど、指が止まった。
そんなことを期待されているとは、思えなかった。
体だけの関係に、律儀な連絡なんて、必要ないはずだった。
スマホを、そのまま鞄にしまい込んだ。
やっと交代が現れたのは、九時をとうに過ぎた頃だった。
挨拶もそこそこに、荷物をまとめて、駅へと走った。
電車の中でも、気が急いていた。
玲依のマンションの最寄駅に着いた時には、約束の時間を、一時間近く過ぎていた。
駅からマンションまでは、歩けば十分。
走れば、五分で着く距離だった。
迷わず、走った。
息が、上がっていく。
汗が、額に滲んでくる。
けれど、止まらなかった。
一秒でも早く、着きたかった。
マンションの玄関前に、辿り着いた。
跳ね上がる息を、整えようとした。
深呼吸を、何度も繰り返した。
気づかれてはいけない。
走ってきたことを、悟られてはいけない。
必死だったことを、知られてはいけない。
額に滲んだ汗を、袖で拭った。
息が、まだ整いきらない。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
それでも、平静を装わなければならなかった。
何度も、深く息を吸って、吐いた。
早く、整え。
早く、いつも通りの自分に戻れ。
心の中で、何度も、そう繰り返した。
ようやく、呼吸が落ち着いてきた頃、鍵を取り出した。
慎重に、鍵穴に差し込んで、回す。
引いたドアが、あっさりと開いた。
思わず、肩の力が抜けた。
チェーンロックが、かかっていなかった。
拒まれていたら、どうしようかと、心のどこかで身構えていたのだと、その安堵で初めて気づいた。
扉を開けて、中に入る。
リビングのドアを開けると、玲依が、こちらを見ていた。
その顔を見た途端、口角が、微かに上がった。
無意識だった。
自分でも、気づいていなかった。
すぐに、表情を引き締めた。
その表情から、何かを読み取ることはできなかった。
何食わぬ顔を、作り直した。
「遅くなった」
軽い調子で、それだけを言った。
本当は、謝りたかった。
本当は、事情を、全部話したかった。
工事現場で足止めされたこと。
死に物狂いで走ってきたこと。
けれど、そのどれもが、言えなかった。
言えば、必死さが伝わってしまう。
必死さが伝われば、本気が透けて見えてしまう。
だから、ただ、軽く笑って見せることしかできなかった。
靴を脱ぎながら、そっと、玲依の様子を窺った。
いつもと変わらない、静かな表情。
心配していたのかどうかも、読み取れなかった。
それでいい。
そう、自分に言い聞かせた。
対等な契約に、心配や、必死さは、含まれていないはずだった。
けれど、心臓は、まだ、走ってきた時とは違う理由で、静かに鳴り続けていた。
その日は、工事現場の警備のバイトだった。
玲依のマンションからは、離れた場所を選んでいる。
カフェ以外のバイトは、絶対に、玲依の生活圏に近づけないようにしていた。
見つかるわけにはいかなかった。
八時少し前。
「赤羽、交代のやつが遅れるらしいから、残ってくれ」
現場責任者から、有無を言わさない口調で言われた。
断れる立場じゃなかった。
「分かりました」
短く答えて、持ち場に戻った。
けれど、いくら待っても、交代は来なかった。
腕時計を見るたび、時間だけが過ぎていく。
八時半。
八時四十五分。
気づけば、九時が目前に迫っていた。
スマホを取り出しかけた。
遅れる連絡を、入れようか。
けれど、指が止まった。
そんなことを期待されているとは、思えなかった。
体だけの関係に、律儀な連絡なんて、必要ないはずだった。
スマホを、そのまま鞄にしまい込んだ。
やっと交代が現れたのは、九時をとうに過ぎた頃だった。
挨拶もそこそこに、荷物をまとめて、駅へと走った。
電車の中でも、気が急いていた。
玲依のマンションの最寄駅に着いた時には、約束の時間を、一時間近く過ぎていた。
駅からマンションまでは、歩けば十分。
走れば、五分で着く距離だった。
迷わず、走った。
息が、上がっていく。
汗が、額に滲んでくる。
けれど、止まらなかった。
一秒でも早く、着きたかった。
マンションの玄関前に、辿り着いた。
跳ね上がる息を、整えようとした。
深呼吸を、何度も繰り返した。
気づかれてはいけない。
走ってきたことを、悟られてはいけない。
必死だったことを、知られてはいけない。
額に滲んだ汗を、袖で拭った。
息が、まだ整いきらない。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
それでも、平静を装わなければならなかった。
何度も、深く息を吸って、吐いた。
早く、整え。
早く、いつも通りの自分に戻れ。
心の中で、何度も、そう繰り返した。
ようやく、呼吸が落ち着いてきた頃、鍵を取り出した。
慎重に、鍵穴に差し込んで、回す。
引いたドアが、あっさりと開いた。
思わず、肩の力が抜けた。
チェーンロックが、かかっていなかった。
拒まれていたら、どうしようかと、心のどこかで身構えていたのだと、その安堵で初めて気づいた。
扉を開けて、中に入る。
リビングのドアを開けると、玲依が、こちらを見ていた。
その顔を見た途端、口角が、微かに上がった。
無意識だった。
自分でも、気づいていなかった。
すぐに、表情を引き締めた。
その表情から、何かを読み取ることはできなかった。
何食わぬ顔を、作り直した。
「遅くなった」
軽い調子で、それだけを言った。
本当は、謝りたかった。
本当は、事情を、全部話したかった。
工事現場で足止めされたこと。
死に物狂いで走ってきたこと。
けれど、そのどれもが、言えなかった。
言えば、必死さが伝わってしまう。
必死さが伝われば、本気が透けて見えてしまう。
だから、ただ、軽く笑って見せることしかできなかった。
靴を脱ぎながら、そっと、玲依の様子を窺った。
いつもと変わらない、静かな表情。
心配していたのかどうかも、読み取れなかった。
それでいい。
そう、自分に言い聞かせた。
対等な契約に、心配や、必死さは、含まれていないはずだった。
けれど、心臓は、まだ、走ってきた時とは違う理由で、静かに鳴り続けていた。