そこにあったはずの愛
第十六話 初めての誘い

そういう関係って、誰が決めたの。

彩奈のあの一言は、まるで小さな棘のように、消えずに胸の奥に刺さったままだった。

書類に目を通していても、会議の合間の沈黙の中にいても、ふとした瞬間にその声が蘇る。

誘ってみようか。

そんな考えが浮かぶたび、玲依はすぐにそれを打ち消した。

――

いや、今更だ。

三年間、一度もそうしてこなかったのに、なぜ今になって。

もし誘って、何かがおかしくなったら。

このままの形でも、別に困ってはいない。

そう言い聞かせるたび、心のどこかで、その言葉が薄っぺらく響いた。

今まで、こうした自己防衛の理屈は、いつも玲依を守ってくれていたはずだった。

なのに今は、その理屈自体が、まるで嘘の皮を被っているように感じられる。

与えられることに、慣れてこなかった。

踏み込むことにも、踏み込まれることにも、ずっと臆病だった。

その臆病さの正体を、玲依は今、初めて正面から見つめようとしていた。

――

数日が過ぎた、ある夜。

一人の部屋で、灯りをひとつだけ点けたまま、玲依はソファに座っていた。

窓の外、街の灯りが遠くに滲んでいる。

スマホを手に取る。

画面を、何度も点けては消した。

打っては、消す。

「今度、ご飯でも」

その七文字を打つのに、これほど時間がかかったことなど、今までに一度もなかった。

交渉や決算報告の資料なら、迷わず言葉を選べる。

なのに、たったこれだけの誘いの言葉に、指先が震えている。

自分らしくない、と思いながらも、その震えを止められなかった。

――

何度目かの躊躇の末、玲依は目を閉じ、送信ボタンに指を触れた。

一瞬の静止。

そして、押した。

送ってしまった、という事実が、胸の奥に重く落ちてくる。

もし、断られたら。

そういう関係じゃない、と突き放されたら。

今更何を、と笑われたら。

三年間、体だけの関係として保ってきたものが、たった七文字の誘いひとつで、脆く崩れてしまうかもしれない。

そう考えると、指先の震えは、後悔よりも先に、恐怖に近い色を帯びていた。

後悔にも似た緊張が、指先からじわりと広がっていく。

こんな緊張、三年間、味わったことがなかった。

体を差し出すことに、何の躊躇もなかった自分が、たった七文字のメッセージひとつに、こんなにも心を乱されている。

その落差に、玲依は自分自身に少し戸惑った。

――

画面を見つめたまま、時間が過ぎていく。

一分が、やけに長く感じられた。

既読の文字は、まだつかない。

心臓の音が、いやに大きく聞こえる。

窓の外の街灯が、瞬きもせず、静かに部屋を照らしていた。

やがて、画面の端に、小さな通知が浮かび上がった。

心臓が、跳ねる。

すぐには、開けなかった。

震える指先で、ようやく画面に触れる。

そこに並んだ文字を見た瞬間、玲依の喉から、小さく息が漏れた。

安堵なのか、それとも別の何かなのか。

自分でも、うまく言葉にできない感情だった。

ただ、その一文を見つめたまま、玲依はしばらく、動けずにいた。
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