そこにあったはずの愛
第二十話 距離の測り方
雑踏の中、凛がこちらに気づいて手を上げた。
その仕草は、いつもと同じはずなのに、なぜか妙にぎこちなく見えた。
歩み寄ってくる足取りも、心なしか、いつもより硬い。
「お、来た」
短い一言。
「うん」
短く返しながら、玲依は次の言葉を探した。
何を言えばいいのか、分からなかった。
三年間、部屋の中でなら、言葉なんて要らなかった。
触れれば、それで会話は成立していた。
なのに今、目の前に立つ相手に、どう声をかければいいのか、まるで見当がつかない。
――
「行こっか」
凛が、ぎこちなく歩き出す。
その隣に並ぼうとして、玲依は一瞬、立ち位置に迷った。
右に立つべきか、左に立つべきか。
そんなことすら、これまで考えたことがなかった。
肩が触れそうになる距離まで近づいて、二人して同時に、微かに体を引いた。
かと思えば、今度は離れすぎて、会話が届きにくいほどの距離になる。
近すぎず、遠すぎず。
その適切な間合いが、どうしても掴めなかった。
何百回と肌を重ねてきた相手のはずなのに。
肌の温度も、吐息の湿り気も、指先の癖さえも知っているはずなのに。
こんな、ただ並んで歩くという、ありふれた距離感だけが、二人には分からなかった。
その事実が、おかしくて、同時にどうしようもなく切なかった。
――
案内された店は、隅の方に位置する小さな個室だった。
向かい合って座ると、テーブルの上の間隔が、また新しい距離として二人を隔てた。
「何にする?」
メニューを差し出しながら、凛が聞いてくる。
「なんでもいい」
「なんでもって、それが一番困るやつだから」
軽口のはずのそのやり取りに、いつもの余裕がなかった。
言葉の端々が、微妙に空回りしている。
沈黙が落ちる瞬間があった。
いつもなら、この沈黙を埋める方法を、二人とも知っていたはずだった。
けれど今夜は、その方法を使うわけにはいかなかった。
かわりに訪れる沈黙は、これまで経験したことのない、種類の違う気まずさだった。
――
料理が運ばれてくる。
湯気が立ち上り、二人の間で薄く揺れる。
「うまそう」
「そうね」
短い会話の応酬。
けれど、その拙さの中に、これまで一度も見たことのない凛の顔があった。
いつもの余裕めいた笑みではなく、どこか照れくさそうな、年相応の表情。
玲依は、その顔を見つめながら、ふと思った。
体を重ねてきた三年間で、こんな顔を見たことは、一度もなかった。
言葉を探しながら会話をする、というただそれだけのことが、二人にとってはこんなにも不慣れで、こんなにも新鮮だった。
――
店内の暖かな灯りが、テーブルの上をやわらかく照らしている。
ぎこちない沈黙も、空回りする軽口も、今までにない距離の測り方も。
そのすべてが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その拙さの中に、今まで知らなかった何かが、確かに芽生え始めている。
湯気の向こうで揺れる凛の顔を見つめながら、玲依はそんな予感を、静かに噛みしめていた。
雑踏の中、凛がこちらに気づいて手を上げた。
その仕草は、いつもと同じはずなのに、なぜか妙にぎこちなく見えた。
歩み寄ってくる足取りも、心なしか、いつもより硬い。
「お、来た」
短い一言。
「うん」
短く返しながら、玲依は次の言葉を探した。
何を言えばいいのか、分からなかった。
三年間、部屋の中でなら、言葉なんて要らなかった。
触れれば、それで会話は成立していた。
なのに今、目の前に立つ相手に、どう声をかければいいのか、まるで見当がつかない。
――
「行こっか」
凛が、ぎこちなく歩き出す。
その隣に並ぼうとして、玲依は一瞬、立ち位置に迷った。
右に立つべきか、左に立つべきか。
そんなことすら、これまで考えたことがなかった。
肩が触れそうになる距離まで近づいて、二人して同時に、微かに体を引いた。
かと思えば、今度は離れすぎて、会話が届きにくいほどの距離になる。
近すぎず、遠すぎず。
その適切な間合いが、どうしても掴めなかった。
何百回と肌を重ねてきた相手のはずなのに。
肌の温度も、吐息の湿り気も、指先の癖さえも知っているはずなのに。
こんな、ただ並んで歩くという、ありふれた距離感だけが、二人には分からなかった。
その事実が、おかしくて、同時にどうしようもなく切なかった。
――
案内された店は、隅の方に位置する小さな個室だった。
向かい合って座ると、テーブルの上の間隔が、また新しい距離として二人を隔てた。
「何にする?」
メニューを差し出しながら、凛が聞いてくる。
「なんでもいい」
「なんでもって、それが一番困るやつだから」
軽口のはずのそのやり取りに、いつもの余裕がなかった。
言葉の端々が、微妙に空回りしている。
沈黙が落ちる瞬間があった。
いつもなら、この沈黙を埋める方法を、二人とも知っていたはずだった。
けれど今夜は、その方法を使うわけにはいかなかった。
かわりに訪れる沈黙は、これまで経験したことのない、種類の違う気まずさだった。
――
料理が運ばれてくる。
湯気が立ち上り、二人の間で薄く揺れる。
「うまそう」
「そうね」
短い会話の応酬。
けれど、その拙さの中に、これまで一度も見たことのない凛の顔があった。
いつもの余裕めいた笑みではなく、どこか照れくさそうな、年相応の表情。
玲依は、その顔を見つめながら、ふと思った。
体を重ねてきた三年間で、こんな顔を見たことは、一度もなかった。
言葉を探しながら会話をする、というただそれだけのことが、二人にとってはこんなにも不慣れで、こんなにも新鮮だった。
――
店内の暖かな灯りが、テーブルの上をやわらかく照らしている。
ぎこちない沈黙も、空回りする軽口も、今までにない距離の測り方も。
そのすべてが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その拙さの中に、今まで知らなかった何かが、確かに芽生え始めている。
湯気の向こうで揺れる凛の顔を見つめながら、玲依はそんな予感を、静かに噛みしめていた。