そこにあったはずの愛
第二十一話 何もない時間
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間の熱がまだ少し残る、生ぬるい風だった。
歩き出してから、玲依はふと振り返るように、さっきまでの時間を思い返した。
そういえば、凛はどこか、ずっと硬かった。
いつもの軽さの奥に、何かを探るような目つきが、時折混じっていた気がする。
理由は分からない。
けれど、確かにそこにあった違和感だった。
深く考える前に、隣を歩く凛の横顔に、玲依はそっと視線をやった。
いつもの調子に戻っているように見える。
気のせいだったのかもしれない。
そう思いながらも、その違和感は、胸の奥に小さく残ったままだった。
――
「もう少し歩こっか」
凛が、何気ない調子でそう言った。
「うん」
短く頷いて、玲依はその隣に並んだ。
特に行き先を決めたわけでもなく、二人は夜の街を、ただ並んで歩いていく。
三年間、こんな時間は一度もなかった。
用のない時間。
体を重ねるためでも、その前後の会話でもない、ただ隣にいるだけの時間。
その手触りが、玲依にはひどく新鮮だった。
――
「絵、いつも何描いてるの」
気づけば、玲依はそう尋ねていた。
自分でも、意外な質問だった。
三年間、一度も聞いたことがなかった。
「んー、いろいろ」
「風景描くの好きだけど、最近は人物多いかな」
「へえ」
「なんか、描きたいもんが増えた、って感じ」
凛の答えは軽かったけれど、その言葉の奥に、何か含みがある気がした。
けれど、それを深追いする勇気は、まだなかった。
「玲依さんは、休みの日何してんの」
「特に何も」
「本読んだり、寝てたり」
「意外と地味だ」
「地味で悪い?」
小さな笑いが、二人の間にこぼれた。
こんな他愛のない会話を、これまで交わしたことがなかった。
体は知り尽くしていたはずなのに、こんな基本的なことすら、玲依は今まで知らなかった。
その事実に気づくたび、切なさと、それに勝る愛おしさのようなものが、胸の奥に広がっていった。
――
歩きながら、いくつもの話題が、途切れては繋がっていった。
好きな食べ物、苦手なもの、子供の頃の些細な記憶。
深い話は、まだできない。
けれど、これまでの沈黙とは違う種類の間が、二人の間に生まれ始めていた。
凛の癖に、玲依は初めて気づいた。
考え事をする時、少しだけ視線を上に向ける癖。
いつも見ていたはずの顔なのに、今夜初めて見つけたような感覚があった。
――
気づけば、夜はずいぶん更けていた。
街灯の連なりが、二人の影を長く伸ばしている。
そろそろ、帰る時間だった。
けれど、その「帰る」という言葉の先に、玲依は言いようのない緊張を覚えていた。
いつもなら、この後の流れは決まっていた。
会うことは、そのまま体を重ねることと同義だった。
三年間、それ以外の終わり方を知らなかった。
なのに今夜、初めて「会ったのに、何もなく別れる」という可能性が、目の前に横たわっている。
もしこのまま何もなく別れたら。
自分たちの関係は、一体何になるのだろう。
体を重ねなければ、この繋がりを、まだ何かと呼べるのだろうか。
それとも、いつも通り部屋に誘うことで、この不慣れな輪郭から、逃げてしまいたいのだろうか。
答えの出ないまま、二人の足は、どちらへともなく、緩やかに歩みを進めていた。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間の熱がまだ少し残る、生ぬるい風だった。
歩き出してから、玲依はふと振り返るように、さっきまでの時間を思い返した。
そういえば、凛はどこか、ずっと硬かった。
いつもの軽さの奥に、何かを探るような目つきが、時折混じっていた気がする。
理由は分からない。
けれど、確かにそこにあった違和感だった。
深く考える前に、隣を歩く凛の横顔に、玲依はそっと視線をやった。
いつもの調子に戻っているように見える。
気のせいだったのかもしれない。
そう思いながらも、その違和感は、胸の奥に小さく残ったままだった。
――
「もう少し歩こっか」
凛が、何気ない調子でそう言った。
「うん」
短く頷いて、玲依はその隣に並んだ。
特に行き先を決めたわけでもなく、二人は夜の街を、ただ並んで歩いていく。
三年間、こんな時間は一度もなかった。
用のない時間。
体を重ねるためでも、その前後の会話でもない、ただ隣にいるだけの時間。
その手触りが、玲依にはひどく新鮮だった。
――
「絵、いつも何描いてるの」
気づけば、玲依はそう尋ねていた。
自分でも、意外な質問だった。
三年間、一度も聞いたことがなかった。
「んー、いろいろ」
「風景描くの好きだけど、最近は人物多いかな」
「へえ」
「なんか、描きたいもんが増えた、って感じ」
凛の答えは軽かったけれど、その言葉の奥に、何か含みがある気がした。
けれど、それを深追いする勇気は、まだなかった。
「玲依さんは、休みの日何してんの」
「特に何も」
「本読んだり、寝てたり」
「意外と地味だ」
「地味で悪い?」
小さな笑いが、二人の間にこぼれた。
こんな他愛のない会話を、これまで交わしたことがなかった。
体は知り尽くしていたはずなのに、こんな基本的なことすら、玲依は今まで知らなかった。
その事実に気づくたび、切なさと、それに勝る愛おしさのようなものが、胸の奥に広がっていった。
――
歩きながら、いくつもの話題が、途切れては繋がっていった。
好きな食べ物、苦手なもの、子供の頃の些細な記憶。
深い話は、まだできない。
けれど、これまでの沈黙とは違う種類の間が、二人の間に生まれ始めていた。
凛の癖に、玲依は初めて気づいた。
考え事をする時、少しだけ視線を上に向ける癖。
いつも見ていたはずの顔なのに、今夜初めて見つけたような感覚があった。
――
気づけば、夜はずいぶん更けていた。
街灯の連なりが、二人の影を長く伸ばしている。
そろそろ、帰る時間だった。
けれど、その「帰る」という言葉の先に、玲依は言いようのない緊張を覚えていた。
いつもなら、この後の流れは決まっていた。
会うことは、そのまま体を重ねることと同義だった。
三年間、それ以外の終わり方を知らなかった。
なのに今夜、初めて「会ったのに、何もなく別れる」という可能性が、目の前に横たわっている。
もしこのまま何もなく別れたら。
自分たちの関係は、一体何になるのだろう。
体を重ねなければ、この繋がりを、まだ何かと呼べるのだろうか。
それとも、いつも通り部屋に誘うことで、この不慣れな輪郭から、逃げてしまいたいのだろうか。
答えの出ないまま、二人の足は、どちらへともなく、緩やかに歩みを進めていた。