そこにあったはずの愛
第二十四話 初めて、触れてこなかった夜

「今日行っていい?」

画面に浮かんだ、いつもの一文。

けれど、玲依はそれを見つめながら、以前とは違う何かを感じている自分に気づいた。

あの夜以来、初めての「今日行っていい?」だった。

――

夜、玄関のドアを開けると、いつも通りの明かりが漏れていた。

来てるんだ。

いつもと同じ感慨のはずなのに、今夜は少しだけ、胸の奥がざわついた。

リビングに入ると、凛がソファに座っていた。

「おかえり」

いつもの、軽い声。

「ただいま」

そう返しながら、玲依はカバンを置き、隣に腰を下ろす。

外で過ごしたあの一日が、二人の間に何を残したのか。

その答えを、今夜、確かめられる気がしていた。

――

会話は、いつも通りに続いた。

今日あった仕事の話、凛の課題の話。

軽口も、以前より少し滑らかに交わされている気がした。

けれど、時間が経っても、凛の手は伸びてこなかった。

最初は、気のせいだと思った。

たまたま、今日はまだそのタイミングじゃないだけだろう、と。

けれど、話題がひとつ、またひとつと途切れていっても、その気配は訪れなかった。

――

玲依は、静かに違和感を募らせていった。

いつもなら、この沈黙は、行為の始まりを告げる合図だった。

言葉が途切れた瞬間、どちらからともなく手が伸び、視線が絡み、それだけで次に何が起こるか、二人とも分かっていた。

その静かな了解の呼吸を、玲依は体の芯で覚えていた。

なのに今夜、その沈黙は、ただの沈黙のまま、部屋の空気に沈んでいく。

隣に座る凛の横顔を、そっと窺う。

いつもと変わらない、柔らかな表情。

眉のかたち、瞬きの間隔、テレビの光を映す瞳の色まで、何ひとつ変わっていないように見える。

なのに、触れてこない。

その事実だけが、部屋の空気の中で、じわりと存在感を増していく。

まるで、そこにあるはずの何かが、静かに抜け落ちていくような感覚だった。

エアコンの低い作動音だけが、やけに大きく耳につく。

時計の針が進む音さえ、いつもより粒立って聞こえた。

――

なぜ、と聞きたい衝動が、喉元まで込み上げてきた。

けれど、その言葉を口にする勇気が、玲依にはなかった。

聞いてしまえば、何かが決定的に崩れる気がした。

体だけの関係だったはずの二人が、今、体を重ねないという事実に、こんなにも動揺している。

その矛盾に、玲依自身が一番戸惑っていた。

嫌われたのだろうか。

飽きられたのだろうか。

それとも、もっと別の理由があるのだろうか。

考えれば考えるほど、答えは遠のいていった。

――

「眠くなってきた」

凛が、あくびを一つ挟みながら、そう呟いた。

「今日はこのまま帰る」

軽い調子で立ち上がる凛を、玲依は座ったまま見上げた。

「そう」

短く答えるので、精一杯だった。

玄関で振り返った凛は、いつも通りの笑みを浮かべていた。

「じゃ、また」

ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

――

一人残されたリビングで、玲依はソファに座ったまま、しばらく動けずにいた。

まだ凛の温もりが残っている座面を、指先でそっと確かめる。

駅の明かりの中で背中を見送った、あの夜に感じた安堵とは、まったく違う感覚だった。

あの夜は、何もないことが、確かな充足だった。

二人の間に、体を超えた何かが生まれた証だと、疑いなく思えた。

けれど今夜、何もないことは、ただの空白として、鈍く胸に痛みを残していた。

同じ「何もない」はずなのに、まるで正反対の手触りをしている。

理由の分からない痛みほど、厄介なものはない。

原因を探ろうとしても、指先が空を切るばかりで、掴めるものが何もなかった。

窓の外、夜はどこまでも静かだった。

遠くを走る車の音が、時折思い出したように響いては、また静寂に呑まれていく。

その静けさが、今夜はやけに冷たく感じられた。

玲依は、まだ温もりの残るソファの上で、長い間、膝を抱えたまま動けずにいた。
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