そこにあったはずの愛
第二十五話 確かめてもいないのに
マンションへ向かう足取りは、いつもより軽かった。
けど、その軽さの奥に、小さな棘のようなものが、ずっと刺さったままだった。
エレベーターの中、鏡に映った自分の顔を、凛はぼんやり眺めた。
浮かれてる顔だ、と思う。
同時に、その浮かれ方が、少し怖くもあった。
――
いつも通り、玄関で出迎えられ、いつも通りソファに並んで座る。
会話が途切れる。
いつもなら、この瞬間に、自然と手が伸びていた。
今夜もそうしようとして、指先が、玲依さんの肩に触れる、その寸前で止まった。
なんでだろう。
自分でも、分からなかった。
けど、体が拒否してる。
そんな感覚だった。
――
触れかけた手を、そっと引く。
かわりに、頭の中に蘇ってきたのは、あの日の記憶だった。
「絵、いつも何描いてるの」
初めて聞かれた質問。
「休みの日何してんの」
たわいもないやり取り。
考え事をする時、視線を少し上に向ける癖。
小さく笑う時、目の端がわずかに下がる仕草。
三年間、体は隅々まで知ってたはずなのに、そんな些細なことすら、あの日まで知らなかった。
たった一日で、こんなにも多くのものを拾い集めてしまった。
拾ってしまったら、もう、知らなかった頃には戻れない。
――
体だけの関係。
三年前、自分から出した言葉じゃないのに、いつの間にかそれを都合よく使ってきた。
好きになったら、いつか終わる。
好きにならなければ、ずっと続けられる。
そう思い込むことで、この関係を守ってきたつもりだった。
けど、今夜、はっきり分かってしまった。
好きだった。
たぶん、ずっと前から。
いや、違う。
「たぶん」なんて曖昧な言葉で、誤魔化さなくていい。
――
最初から、わかってたことだったのに。
カフェで働いてた頃、あの人が店に来るたび、心臓が変な音を立ててた。
金づるになればいい、なんて、自分に言い聞かせるための言い訳だったんだと思う。
本当は、ただ、目が離せなかっただけだった。
随分、遠回りしたな。
三年もかけて、やっと認める。
自分の不器用さに、凛は小さく笑った。
笑うしかなかった。
――
好きだと、自覚してしまった今、これまで通りには振る舞えなかった。
感情も確かめ合ってないのに、体だけを重ねる。
今までは、それでよかったはずだった。
それ以上を望まないことが、この関係を守る、唯一のやり方だと思ってた。
けど、今はもう、それじゃ足りない。
好きだと自覚した相手に、気持ちを抜きにして触れることが、急に、ひどく後ろめたいことに思えてきた。
まるで、玲依さんを、ただの体として扱ってるみたいで。
そんなつもりは、なかったはずなのに。
――
かといって、この気持ちを、口に出す勇気はまだなかった。
言葉にすれば、何かが決定的に変わってしまう。
拒まれるかもしれない。
今までの関係すら、失うかもしれない。
その恐怖の方が、まだ大きかった。
だから、せめて。
確かめてもいない気持ちのまま、体だけ重ねることだけは、もうできない。
それが、今の凛にできる、精一杯の誠実さだった。
不器用で、臆病で、格好悪い誠実さ。
けど、それしか、今は持ち合わせがなかった。
――
「眠くなってきた」
わざとらしく、あくびを一つ挟む。
「今日はこのまま帰る」
軽い調子を装って、そう告げた。
玲依さんの、少し戸惑ったような表情。
その理由を、伝えるつもりはなかった。
まだ、今は。
「じゃ、また」
いつもの笑みを浮かべて、玄関を出る。
――
ドアが閉まる音を背に、階段を降りながら、凛は夜空を見上げた。
星は、ほとんど見えなかった。
それでも、胸の中にはっきりと自覚した想いだけは、消えずに残っていた。
好きだ。
初めて、はっきりとそう思えた。
随分、時間がかかった。
これから先、この気持ちをどうすればいいのか、まだ答えは出ない。
けど、少なくとも、もう自分に嘘をつくことだけは、できなくなっていた。
マンションへ向かう足取りは、いつもより軽かった。
けど、その軽さの奥に、小さな棘のようなものが、ずっと刺さったままだった。
エレベーターの中、鏡に映った自分の顔を、凛はぼんやり眺めた。
浮かれてる顔だ、と思う。
同時に、その浮かれ方が、少し怖くもあった。
――
いつも通り、玄関で出迎えられ、いつも通りソファに並んで座る。
会話が途切れる。
いつもなら、この瞬間に、自然と手が伸びていた。
今夜もそうしようとして、指先が、玲依さんの肩に触れる、その寸前で止まった。
なんでだろう。
自分でも、分からなかった。
けど、体が拒否してる。
そんな感覚だった。
――
触れかけた手を、そっと引く。
かわりに、頭の中に蘇ってきたのは、あの日の記憶だった。
「絵、いつも何描いてるの」
初めて聞かれた質問。
「休みの日何してんの」
たわいもないやり取り。
考え事をする時、視線を少し上に向ける癖。
小さく笑う時、目の端がわずかに下がる仕草。
三年間、体は隅々まで知ってたはずなのに、そんな些細なことすら、あの日まで知らなかった。
たった一日で、こんなにも多くのものを拾い集めてしまった。
拾ってしまったら、もう、知らなかった頃には戻れない。
――
体だけの関係。
三年前、自分から出した言葉じゃないのに、いつの間にかそれを都合よく使ってきた。
好きになったら、いつか終わる。
好きにならなければ、ずっと続けられる。
そう思い込むことで、この関係を守ってきたつもりだった。
けど、今夜、はっきり分かってしまった。
好きだった。
たぶん、ずっと前から。
いや、違う。
「たぶん」なんて曖昧な言葉で、誤魔化さなくていい。
――
最初から、わかってたことだったのに。
カフェで働いてた頃、あの人が店に来るたび、心臓が変な音を立ててた。
金づるになればいい、なんて、自分に言い聞かせるための言い訳だったんだと思う。
本当は、ただ、目が離せなかっただけだった。
随分、遠回りしたな。
三年もかけて、やっと認める。
自分の不器用さに、凛は小さく笑った。
笑うしかなかった。
――
好きだと、自覚してしまった今、これまで通りには振る舞えなかった。
感情も確かめ合ってないのに、体だけを重ねる。
今までは、それでよかったはずだった。
それ以上を望まないことが、この関係を守る、唯一のやり方だと思ってた。
けど、今はもう、それじゃ足りない。
好きだと自覚した相手に、気持ちを抜きにして触れることが、急に、ひどく後ろめたいことに思えてきた。
まるで、玲依さんを、ただの体として扱ってるみたいで。
そんなつもりは、なかったはずなのに。
――
かといって、この気持ちを、口に出す勇気はまだなかった。
言葉にすれば、何かが決定的に変わってしまう。
拒まれるかもしれない。
今までの関係すら、失うかもしれない。
その恐怖の方が、まだ大きかった。
だから、せめて。
確かめてもいない気持ちのまま、体だけ重ねることだけは、もうできない。
それが、今の凛にできる、精一杯の誠実さだった。
不器用で、臆病で、格好悪い誠実さ。
けど、それしか、今は持ち合わせがなかった。
――
「眠くなってきた」
わざとらしく、あくびを一つ挟む。
「今日はこのまま帰る」
軽い調子を装って、そう告げた。
玲依さんの、少し戸惑ったような表情。
その理由を、伝えるつもりはなかった。
まだ、今は。
「じゃ、また」
いつもの笑みを浮かべて、玄関を出る。
――
ドアが閉まる音を背に、階段を降りながら、凛は夜空を見上げた。
星は、ほとんど見えなかった。
それでも、胸の中にはっきりと自覚した想いだけは、消えずに残っていた。
好きだ。
初めて、はっきりとそう思えた。
随分、時間がかかった。
これから先、この気持ちをどうすればいいのか、まだ答えは出ない。
けど、少なくとも、もう自分に嘘をつくことだけは、できなくなっていた。