そこにあったはずの愛
第二十九話 気づいてしまった名前

夜、一人の部屋で、玲依はソファに深く沈み込んでいた。

灯りは、ひとつだけ。

窓の外、街の明かりが遠く霞んで見える。

もう、いい加減に認めなければならなかった。

この胸の奥に、いつからか居座っている苦しさの正体を。

――

体を重ねなくなった。

ただ、それだけのことのはずだった。

三年間、体だけの関係で、玲依はそれなりに満ち足りていたはずだった。

求められれば応じ、応じれば、それで十分だった。

そこに、何かを期待したことなど、一度もなかったはずだった。

なのに今、失うことを、これほど恐れている。

体の繋がりを失うことが怖いなら、まだ理解できる。

けれど、玲依が今、本当に恐れているのは、そこじゃなかった。

――

思考は、勝手に過去を巡り始める。

「絵、いつも何描いてるの」

初めて聞いた質問。

「休みの日何してんの」

くだらないやり取りに、思いのほか心が弾んだこと。

考え事をする時、視線を少し上げる癖。

小さく笑う時、目の端がわずかに下がる仕草。

隣を歩く時の、あの近すぎず遠すぎない距離。

肩が触れそうになって、二人して同時に体を引いた、あの夜の不器用さ。

何百回も肌を重ねてきたはずなのに、こんな些細なことすら、あの一日まで知らなかった。

知ってしまったら、もう戻れなかった。

体を知り尽くしていた三年間よりも、たった一日で拾い集めた欠片の方が、ずっと重く、ずっと鮮やかに、玲依の中に残っていた。

――

失いたくないのは、体の繋がりじゃない。

失いたくないのは。

考えを言葉にしようとした瞬間、喉の奥が、ぎゅっと締まった。

分かっている。

もう、とっくに分かっている。

ただ、その言葉を自分の中で確定させることが、これまでずっと怖かっただけだった。

玲依は、目を閉じた。

好きだ。

その二文字が、ようやく、玲依の中で明確な輪郭を持った。

凛が、好きだった。

体だけの相手としてでなく、一人の人間として。

その存在そのものを、失いたくないと思っていた。

――

自覚した瞬間、胸の奥に、確かな安堵があった。

長い間、名前をつけられずにいた感情に、ようやく居場所を与えられたような感覚。

けれど、その安堵は、すぐに別のものに塗り替えられていく。

恐怖だった。

好きだと認めることは、これまでずっと避けてきたものを、自ら望むことになる。

与えられる愛情。

それを、素直に受け取る勇気。

継母の変わらぬ愛情すら、玲依は受け止めきれなかった。

血の繋がりもないのに、なぜ同じように愛してくれるのか。

その理由の分からなさに、ずっと居場所のなさを感じてきた。

もし凛の想いを、同じように受け取ることになったら。

もし、それすらも、玲依には受け止めきれなかったら。

自分がまた、あの継母への申し訳なさと同じ罪悪感を、今度は凛に対して抱くことになったら。

そう考えると、喜びのはずの感情に、冷たい影が差した。

――

好きだと気づいたことが、こんなにも恐ろしいなんて。

玲依は、膝を抱えるように体を丸めた。

これまで、感情に蓋をすることで、自分を守ってきた。

蓋を開けてしまった今、その中にあったものの重さに、玲依は圧し潰されそうになっていた。

好きだ。

けれど、この気持ちをどうすればいいのか。

凛に、どう向き合えばいいのか。

答えは、どこにも見当たらなかった。

窓の外、夜はどこまでも静かで、その静けさが、今夜はやけに重く、玲依の肩にのしかかっていた。
< 29 / 104 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop