そこにあったはずの愛
第三十話 迎えに行く習慣

スマホの画面に、いつもの一文を打ち込もうとして、凛の指が止まった。

「今日行っていい?」

打ちかけた文字を、じっと見つめる。

この一文が、いつからか、ただの合図でしかなくなっていた。

抱かせて。

それ以外の意味を、この言葉は一度も持ったことがなかった。

けど、今は違う。

玲依さんへの気持ちが、もう体だけのものじゃなくなった今、この言葉で誘うこと自体が、急に軽々しく、薄っぺらいものに思えてくる。

打ちかけた文字を、全部消した。

――

代わりに、思いついたことがあった。

言葉で誘わなくても、会いに行けばいい。

職場の前で待って、一緒に帰る。

それだけなら、体を求める合図にはならない。

ただ、顔が見たい。

ただ、一緒にいたい。

それだけの、単純な理由。

けど、凛にとっては、大きな決断だった。

――

最初の一度は、ただの思いつきのつもりだった。

大理石のロビー、スーツの行き交う中に立って、玲依さんの姿を探す時間。

見つけた瞬間の、あの安堵。

隣を歩き出す時の、言葉のいらない満足感。

それが、思いのほか、心地よかった。

言葉を交わさなくても、隣にいるだけで、満たされるものがあった。

体を重ねることでしか得られないと思っていた充足が、ただ並んで歩くだけで、確かにそこにあった。

――

気づけば、「今日行っていい?」の代わりに、迎えに行くことが、いつの間にか習慣になっていた。

週に何度か、仕事終わりの時間に合わせて、凛はロビーで待つようになった。

バイトの合間を縫って、無理に時間を作った。

疲れは溜まっていたけど、不思議と苦にはならなかった。

――

一方で、玲依は、この変化に戸惑っていた。

抱かれなくなってから、ずっと胸の奥に居座っていた不安は、まだ消えていない。

このまま、二人の関係が破綻に向かっているんじゃないか。

そう思うと、いたたまれなかった。

なのに今度は、迎えに来るという、新しい行動が始まった。

優しさなのか。

それとも、何か別の意味があるのか。

彩奈には、「良かったじゃん」と言われた。

「迎えに来てくれるとか、大事にされてる証拠じゃん」

そう言われても、玲依には、何が「良かった」のか、はっきりとは分からなかった。

抱かれなくなったことへの不安と、迎えに来てくれることへの戸惑い。

正反対に見える二つの感情が、同時に胸の中でせめぎ合っていた。

拒む理由は、どこにもなかった。

けれど、素直に喜ぶことも、まだできずにいた。

――

凛の側からすれば、この習慣には、まだ言葉にできていない決意が、静かに積み重なっていた。

言葉で誘うことをやめた分、行動で示したかった。

けど、行動だけでは、いつか限界が来る。

ロビーで玲依さんの姿を見つけるたび、凛は思う。

いつか、ちゃんと言葉にしなきゃいけない。

この気持ちを、曖昧なままにしておくのは、もう限界だった。

――

夕暮れの街を、二人分の足音が並んで進んでいく。

言葉のいらない距離のはずなのに、凛の胸の奥には、まだ言えていない言葉が、重く沈んでいた。

いつか、この静けさを破らなきゃいけない日が来る。

そう遠くない未来に。

凛は、隣を歩く玲依さんの横顔を、そっと見つめた。

その予感だけを胸に抱えたまま、二人は夕暮れの街を歩き続けていた。
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