そこにあったはずの愛
第三十四話 誰にも渡したくない

仕事を終え、駅へ向かう人混みの中を、玲依は歩いていた。

夕暮れの光が、ビルの谷間から斜めに差し込んでいる。

その光の中に、見慣れた輪郭が、ふと視界の端を掠めた。

心臓が、小さく跳ねる。

凛だ。

見つけた瞬間、いつもの高鳴りが、胸の奥に広がりかけた。

けれど、その高鳴りは、次の瞬間、別の何かに塗り替えられた。

――

隣に、女がいた。

見知らぬ横顔。

親しげな距離感。

肩が触れそうなほど近い、けれど不自然でもない、慣れた歩幅。

玲依は、その場に立ち尽くしたまま、動けなくなった。

視界が、急に狭くなった気がした。

周りの喧騒が、遠くに霞んでいく。

聞こえるのは、自分の心臓の音だけだった。

――

連絡を取らなかった間に。

その考えが、稲妻のように頭を貫いた。

自分が距離を取っている間に、他に誰かできたのかもしれない。

自分が拒絶したと、凛に思わせてしまったのかもしれない。

傷つけて、離れていかせてしまったのかもしれない。

それで、あの子のところに。

考えれば考えるほど、可能性は現実味を帯びていく。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

苦しい。

こんな痛みは、初めてだった。

――

これまで、玲依は感情を制御することに長けていた。

理性が、いつも感情より先にあった。

考えて、判断して、それから行動する。

そういう人間として、玲依は生きてきた。

けれど、今この瞬間、その順序が、初めて崩れた。

理性が、追いつかなかった。

誰にも渡したくない。

その一言だけが、頭の中を、まっすぐに貫いていた。

好きだと、あの夜自覚してから、ずっと胸の奥に閉じ込めてきた感情。

曖昧な「うん」の中に押し込めて、蓋をしてきたはずの想い。

それが今、堰を切ったように、一気に溢れ出していた。

――

気づけば、足が動いていた。

考えるよりも先に。

人混みをかき分け、玲依は駆け出していた。

ヒールの音が、アスファルトに乱れて響く。

心臓が、痛いほど早鐘を打っている。

距離が、みるみる縮まっていく。

理由も、言葉も、まだ何ひとつ用意できていなかった。

けれど、止まれなかった。

止まりたくなかった。

――

「凛」

自分でも驚くほど大きな声が、口から飛び出した。

伸ばした手が、凛の腕を、しっかりと掴んだ。

その瞬間、周りの音が、一気に遠のいた気がした。

凛が、驚いたように振り返る。

その目に映る自分は、きっと、ひどく必死な顔をしていたに違いない。

「玲依さん……?」

戸惑いの滲む声。

隣の女性が、驚いた表情でこちらを見ている。

けれど、玲依の目には、もう凛しか映っていなかった。

――

心臓が、まだ激しく鳴っている。

喉が、からからに渇いていた。

何を言うべきか、まだ整理できていない。

それでも、掴んだ腕を、離すことができなかった。

これまで、ずっと言葉を選び、感情を抑え、安全な場所から動かずにいた。

けれど、もう戻れない。

何かが、今まさに、動き出そうとしていた。

夕暮れの街の喧騒の中、玲依はただ、凛の腕を握りしめたまま、次の言葉を探していた。
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