そこにあったはずの愛
第三十五話 渡さない

掴んだ腕から、凛の体温が伝わってくる。

その温度が、玲依の中の何かを、さらに掻き立てた。

「その子」

声が、震えていた。

自分でも、こんな声が出せるとは思っていなかった。

「誰」

隣に立つ女性が、驚いたように目を見開く。

けれど、玲依の視界には、その驚きすら、うまく映っていなかった。

――

凛が、何か言おうと口を開く。

その一瞬の隙間に、玲依の口から、言葉がこぼれ落ちた。

「凛は」

呼吸が、浅くなっていた。

「渡さない」

言った瞬間、周りの音が、また一段と遠くなった気がした。

自分の声とは思えないほど、剥き出しの響きだった。

理性で選び抜いた言葉ではなかった。

考える前に、体の奥底から、そのまま突き上げてきた言葉だった。

三年間、感情を制御することに慣れてきたはずの自分が、今、ただの一人の、何かを失うことを恐れる人間になっていた。

――

凛の目が、大きく見開かれる。

驚きの色が、瞳の奥にはっきりと浮かんでいた。

けれど、その驚きは、すぐに別のものへと変わっていった。

唇の端が、微かに震えている。

こらえきれない喜びが、その表情の隙間から、じわりと滲み出てくるのが分かった。

「玲依さん」

掠れた声で、名前を呼ばれる。

「誤解だよ」

凛が、静かに、けれど確かな声で言った。

「ただの、同級生」

「本当に、それだけ」

その声には、嘘をつく理由が、どこにもないという確信があった。

――

言葉が、玲依の中に、ゆっくりと染み込んでいく。

誤解だった。

その事実が分かった瞬間、燃え上がっていた感情が、急速に冷えていく。

代わりに込み上げてきたのは、羞恥と、罪悪感だった。

自分は、何をしたのだろう。

見知らぬ人の前で、あんな剥き出しの言葉を、あんな乱暴な行動を。

我に返った玲依は、掴んだままだった腕を、そっと離した。

――

視線を、同級生の女性へと向ける。

彼女は、複雑な表情で、こちらを見ていた。

驚きと、それだけではない、何か静かな諦めのようなものが、その目の奥に揺れている気がした。

「ごめんなさい」

玲依は、深く頭を下げた。

「巻き込んでしまって」

「勝手に、誤解して」

言葉を選ぶ余裕もなく、ただ、素直な謝罪だけが口をついて出た。

――

彼女は、しばらく黙ったまま、玲依を見つめていた。

やがて、小さく首を振った。

「ううん」

「大丈夫」

その声には、思ったより、優しさがあった。

「帰ります」

そう呟くように言って、彼女は、静かに二人から距離を取った。

振り返らずに、歩き出す背中。

その背中に、何か言い残したいことがあるようにも見えたけれど、彼女は結局、何も言わなかった。

ただ、遠ざかっていく足音だけが、夕暮れの街に、しばらく響いていた。

四年間、遠くから見つめ続けてきた相手が、初めて見せた表情。

こらえきれない喜びを滲ませた、あの顔。

その光景を前に、彼女の中にあった、まだ名前もつけられなかった想いは、静かに、けれど確かに、区切りをつけられていった。

――

気づけば、通りには、二人きりになっていた。

夕暮れの光が、じわじわと色を濃くしていく。

さっきまでの熱が、まだ体の中に残っている。

玲依は、自分の手のひらを、そっと見つめた。

凛の腕を掴んでいた感触が、まだそこに残っている気がした。

「玲依さん」

凛が、静かに、名前を呼ぶ。

「今の、本当?」

その声に、玲依は顔を上げた。

夕陽を背にした凛の表情は、いつもの軽さとは違う、真っ直ぐな光を宿していた。

まだ、伝えるべき言葉は、いくつも残っている。

けれど、その一歩を踏み出す準備が、玲依の中で、確かに整い始めていた。
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