そこにあったはずの愛
第二章
第三十七話 まだ知らない、その続き
目が覚めたとき、玲依はまず静けさに気づいた。
いつもと違う静けさだった。
カーテンの隙間から、白い光が一筋、床に落ちている。
雨は上がったらしい。
――
隣に、体温があった。
三年間、これは一度もなかったことだった。
行為の後、必ず凛は帰っていった。
どんなに遅い時間でも、どんなに玲依が引き止めたくても、それが二人の間の暗黙のルールだった。
――
玲依は寝返りを打つように、そっと顔だけを傾けた。
凛が、眠っている。
無防備な寝顔だった。
普段一緒にいるときの、あの軽やかな笑い方とも違う。
けれど、時折ふとした瞬間に覗く、年相応かそれ以上の翳りとも違う。
今の凛には、そのどちらもなかった。
ただ、あどけなかった。
――
こんな顔を、知らなかった。
三年も一緒にいたのに。
体は、数え切れないほど重ねてきたのに。
隣で眠る顔を、こんなふうに、時間をかけて見つめたことは、一度もなかった。
――
玲依は、指先で、凛の前髪にそっと触れた。
起こさないように。
ただ、確かめたかった。
これが夢ではないことを。
――
「……ん」
凛の眉が、微かに動いた。
玲依は慌てて、指を引っ込めた。
心臓が、ばかみたいに跳ねていた。
自分の家の、自分のベッドの上だというのに。
――
「玲依さん……?」
かすれた声。
寝ぼけた目が、ゆっくりと玲依を捉える。
その瞬間、凛の顔に、ぶわっと熱が上った。
「あ、俺……」
言葉が続かない。
いつもの軽さが、どこにもなかった。
――
「泊まった、ね」
玲依が、静かに言った。
確認するように。
まだ自分でも、信じきれていないように。
――
凛は、布団を引き寄せるように、少しだけ体を縮めた。
「そう、だね」
短い返事だった。
いつもならもっと軽口を叩くはずの凛が、今は目を合わせられずにいる。
三年間、体だけは何度も重ねてきたのに。
朝を一緒に迎えるという、ただそれだけのことに、こんなにも不慣れだった。
――
沈黙が、気まずさとは少し違う質感で、部屋に満ちていた。
どちらかが動かなければ、いつまでもこのままだった。
先に動いたのは、玲依だった。
――
「コーヒー、飲む?」
ベッドを抜け出しながら、努めて何でもないふうに聞いた。
自分の声が、少し上擦っていることに、玲依自身が一番驚いていた。
「……飲む」
背中越しに、凛の声が返ってきた。
――
キッチンに立ち、豆を挽く。
その音だけが、朝の部屋に響いていた。
いつもなら、こんな時間に凛はここにいない。
玲依の部屋の、朝の匂いも、光の角度も、凛は知らないはずだった。
――
振り返ると、凛がキッチンの入り口に、所在なさげに立っていた。
Tシャツは玲依のものだった。
肩の線がぴたりと張りついて、丈も心もとなく短い。
明らかに、女物だった。
不釣り合いなその格好が、やけに頼りなく見えた。
「似合わない?」
視線に気づいた凛が、いつもの調子を取り戻そうとするように、笑ってみせた。
けれどその笑みは、いつもより少しだけ、ぎこちなかった。
――
「似合ってる」
玲依は、素直にそう答えた。
飾らない言葉だった。
凛が、少し驚いたように目を見開いて、それからふいと視線を逸らした。
耳の先が、赤くなっていた。
――
二人分のマグカップを、テーブルに並べる。
向かい合って座るという、ただそれだけのことが、玲依にはひどく新鮮だった。
これまでは、体を重ねたあとの静寂の中で、言葉を交わすことすらなかった。
今、湯気の向こうに、凛の顔がある。
それだけのことが、胸の奥を、じんわりと熱くさせた。
――
「なんか、変な感じ」
凛が、ぽつりと呟いた。
「変な感じ?」
「玲依さんと、こうやって、朝ごはんとか、そういうの」
言いながら、凛は照れくさそうに、マグカップに口をつけた。
「三年も一緒にいたのに、初めてだから」
――
その言葉に、玲依の胸の奥が、小さく疼いた。
三年という時間の重みと、その中にあった空白と。
今、ようやく埋まりはじめた隙間の輪郭を、玲依は静かに噛み締めていた。
――
「これから、増えていくといいね」
玲依が、そう言った。
願うような、確かめるような声だった。
凛は、少しの間、黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「うん」
「そうだね」
その頷き方に、玲依はほんの一瞬だけ、何か引っかかるものを感じた。
けれど、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
きっと、気のせいだと思った。
――
穏やかな朝だった。
窓の外では、雨上がりの光が、街を静かに洗い流していた。
玲依は、この時間が、これからも続いていくのだと、そう信じていた。
――
けれど、コーヒーを飲み干した凛が、ふと時計に目をやったとき。
その表情に、ほんの一瞬、影が差した。
「あ……そろそろ」
言いかけて、凛は口をつぐんだ。
「うん?」
「ううん、何でもない」
凛は、いつもの笑顔に戻って、そう言った。
あまりに自然な切り替えだったから、玲依は、それ以上追及しなかった。
――
けれど、玄関で靴を履く凛の背中を見送りながら。
玲依の中には、小さな違和感だけが、そっと残っていた。
言葉にできないほど、些細な違和感だった。
三年間、ずっとそこにあったのに、今まで気づかなかった何かが、初めて輪郭を持ちはじめた朝だった。
目が覚めたとき、玲依はまず静けさに気づいた。
いつもと違う静けさだった。
カーテンの隙間から、白い光が一筋、床に落ちている。
雨は上がったらしい。
――
隣に、体温があった。
三年間、これは一度もなかったことだった。
行為の後、必ず凛は帰っていった。
どんなに遅い時間でも、どんなに玲依が引き止めたくても、それが二人の間の暗黙のルールだった。
――
玲依は寝返りを打つように、そっと顔だけを傾けた。
凛が、眠っている。
無防備な寝顔だった。
普段一緒にいるときの、あの軽やかな笑い方とも違う。
けれど、時折ふとした瞬間に覗く、年相応かそれ以上の翳りとも違う。
今の凛には、そのどちらもなかった。
ただ、あどけなかった。
――
こんな顔を、知らなかった。
三年も一緒にいたのに。
体は、数え切れないほど重ねてきたのに。
隣で眠る顔を、こんなふうに、時間をかけて見つめたことは、一度もなかった。
――
玲依は、指先で、凛の前髪にそっと触れた。
起こさないように。
ただ、確かめたかった。
これが夢ではないことを。
――
「……ん」
凛の眉が、微かに動いた。
玲依は慌てて、指を引っ込めた。
心臓が、ばかみたいに跳ねていた。
自分の家の、自分のベッドの上だというのに。
――
「玲依さん……?」
かすれた声。
寝ぼけた目が、ゆっくりと玲依を捉える。
その瞬間、凛の顔に、ぶわっと熱が上った。
「あ、俺……」
言葉が続かない。
いつもの軽さが、どこにもなかった。
――
「泊まった、ね」
玲依が、静かに言った。
確認するように。
まだ自分でも、信じきれていないように。
――
凛は、布団を引き寄せるように、少しだけ体を縮めた。
「そう、だね」
短い返事だった。
いつもならもっと軽口を叩くはずの凛が、今は目を合わせられずにいる。
三年間、体だけは何度も重ねてきたのに。
朝を一緒に迎えるという、ただそれだけのことに、こんなにも不慣れだった。
――
沈黙が、気まずさとは少し違う質感で、部屋に満ちていた。
どちらかが動かなければ、いつまでもこのままだった。
先に動いたのは、玲依だった。
――
「コーヒー、飲む?」
ベッドを抜け出しながら、努めて何でもないふうに聞いた。
自分の声が、少し上擦っていることに、玲依自身が一番驚いていた。
「……飲む」
背中越しに、凛の声が返ってきた。
――
キッチンに立ち、豆を挽く。
その音だけが、朝の部屋に響いていた。
いつもなら、こんな時間に凛はここにいない。
玲依の部屋の、朝の匂いも、光の角度も、凛は知らないはずだった。
――
振り返ると、凛がキッチンの入り口に、所在なさげに立っていた。
Tシャツは玲依のものだった。
肩の線がぴたりと張りついて、丈も心もとなく短い。
明らかに、女物だった。
不釣り合いなその格好が、やけに頼りなく見えた。
「似合わない?」
視線に気づいた凛が、いつもの調子を取り戻そうとするように、笑ってみせた。
けれどその笑みは、いつもより少しだけ、ぎこちなかった。
――
「似合ってる」
玲依は、素直にそう答えた。
飾らない言葉だった。
凛が、少し驚いたように目を見開いて、それからふいと視線を逸らした。
耳の先が、赤くなっていた。
――
二人分のマグカップを、テーブルに並べる。
向かい合って座るという、ただそれだけのことが、玲依にはひどく新鮮だった。
これまでは、体を重ねたあとの静寂の中で、言葉を交わすことすらなかった。
今、湯気の向こうに、凛の顔がある。
それだけのことが、胸の奥を、じんわりと熱くさせた。
――
「なんか、変な感じ」
凛が、ぽつりと呟いた。
「変な感じ?」
「玲依さんと、こうやって、朝ごはんとか、そういうの」
言いながら、凛は照れくさそうに、マグカップに口をつけた。
「三年も一緒にいたのに、初めてだから」
――
その言葉に、玲依の胸の奥が、小さく疼いた。
三年という時間の重みと、その中にあった空白と。
今、ようやく埋まりはじめた隙間の輪郭を、玲依は静かに噛み締めていた。
――
「これから、増えていくといいね」
玲依が、そう言った。
願うような、確かめるような声だった。
凛は、少しの間、黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「うん」
「そうだね」
その頷き方に、玲依はほんの一瞬だけ、何か引っかかるものを感じた。
けれど、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
きっと、気のせいだと思った。
――
穏やかな朝だった。
窓の外では、雨上がりの光が、街を静かに洗い流していた。
玲依は、この時間が、これからも続いていくのだと、そう信じていた。
――
けれど、コーヒーを飲み干した凛が、ふと時計に目をやったとき。
その表情に、ほんの一瞬、影が差した。
「あ……そろそろ」
言いかけて、凛は口をつぐんだ。
「うん?」
「ううん、何でもない」
凛は、いつもの笑顔に戻って、そう言った。
あまりに自然な切り替えだったから、玲依は、それ以上追及しなかった。
――
けれど、玄関で靴を履く凛の背中を見送りながら。
玲依の中には、小さな違和感だけが、そっと残っていた。
言葉にできないほど、些細な違和感だった。
三年間、ずっとそこにあったのに、今まで気づかなかった何かが、初めて輪郭を持ちはじめた朝だった。