そこにあったはずの愛
第三十八話 名前を呼ぶまで

休日の午後は、いつもよりゆっくりと時間が流れていた。

窓の外は、柔らかな曇り空。

雨が降りそうで、まだ降らない。

そんな中途半端な天気が、部屋の空気にも、どこか間延びした静けさを与えていた。

――

ソファに並んで座り、特に意味もなくテレビをつけていた。

凛は、スマホをいじりながら、時々くすっと笑っている。

玲依は、その横顔を眺めながら、コーヒーを飲んでいた。

――

「ねえ」

言いかけて、玲依は一瞬、言葉を止めた。

自分でも、なぜ止まったのか分からなかった。

いつもと同じ、何気ない呼びかけのはずだった。

――

「ん?」

凛が、スマホから顔を上げる。

「……ううん、何でもない」

玲依は、誤魔化すようにマグカップに口をつけた。

けれど、頭の中では、たった今の違和感が、まだ形を持たずに漂っていた。

――

ねえ。

その言葉を、玲依はこれまで、数え切れないほど口にしてきた。

凛に対しても、他のどの男に対しても。

同じ言葉、同じ距離感で。

体だけの関係に、名前なんて必要なかった。

――

そのことに、今さらのように気づいてしまった。

三年間、玲依は凛のことを、一度も「名前で」呼んでこなかった。

呼べば何かが変わってしまう気がして、あるいは呼ぶことの意味を、無意識に避けてきたのかもしれない。

――

――待って。

一度だけ、呼んだことがある。

いや、二度。

――

見知らぬ女性と一緒にいる凛を、あの夕暮れの道で見かけたときのこと。

込み上げる衝動のまま、気づけば「凛」と呼びかけていた。

理性より先に、感情が言葉になっていた。

――

そして、初めて二人で夜を明かした、あの日のこと。

肌を重ねながら、無意識のうちに、何度もその名を呼んでいた。

あれは、理性の外側にあった言葉だった。

――

つまり。

玲依は、自分の中の答えに、静かに行き着いた。

自分が凛の名前を呼べるのは、理性が追いつかないときだけだった。

普段の、何でもない時間の中では、一度も。

――

「玲依さん、さっきから百面相してるけど」

凛の声に、玲依は我に返った。

「百面相なんて、してない」

「してたよ。何か考えてる時の顔」

凛は、悪戯っぽく笑いながら、玲依の顔を覗き込んだ。

――

「別に、大したことじゃない」

玲依は、視線を逸らした。

自分の内側で起きている変化を、まだうまく言葉にできずにいた。

――

「ふうん」

凛は、それ以上追及せず、また元の体勢に戻った。

その気安さが、いつもは心地よかったはずなのに。

今は、少しだけ、もどかしかった。

――

「そういえば」

凛が、思い出したように口を開いた。

「玲依さんって、俺のこと『ねえ』としか呼ばないよね」

――

心臓が、小さく跳ねた。

まるで、頭の中を見透かされたようなタイミングだった。

「……そう、かな」

「そうだよ。三年間、ずっと」

凛は、からかうような笑みを浮かべた。

「玲依さんは、『ねえ』が板についてるよね」

「俺のこと、下の名前で呼ぶの、恥ずかしいとか?」

――

軽口だった。

いつもの、茶化すような口調。

けれど、その言葉が、玲依の胸の奥に、思いのほか深く刺さった。

――

「恥ずかしいとか、そういうんじゃない」

玲依は、静かに言った。

自分でも、驚くほど真剣な声になっていた。

「じゃあ、何」

凛が、少しだけ興味を引かれたように、玲依を見た。

――

玲依は、しばらく黙っていた。

言葉を選ぶというより、覚悟を決めるための沈黙だった。

――

「凛」

はっきりと、その名を呼んだ。

意識して、理性を保ったまま。

これまでの二度とは、まったく違う呼び方だった。

――

一瞬、部屋の空気が止まった。

凛の目が、大きく見開かれる。

さっきまでの余裕のある笑みが、跡形もなく消えていた。

――

「な、なに、急に」

声が、明らかに動揺していた。

いつもの茶化す調子は、どこにもなかった。

耳の先が、みるみる赤くなっていく。

――

「別に。ただ、呼んでみただけ」

玲依は、あえて、何でもないふうに言った。

けれど、内心では、自分の胸の高鳴りを、抑えるのに必死だった。

――

「ずるい」

凛が、ぽつりと呟いた。

「そういうの、不意打ちすぎる」

顔を背けながら、凛はソファのクッションに顔を半分埋めた。

その耳が、まだ赤いままだった。

――

玲依は、そんな凛の反応を見ながら、小さく笑った。

自然に、口元が緩んでいた。

こんなふうに笑えることが、自分でも意外だった。

――

たった二文字の名前。

それを口にするだけで、こんなにも世界の色が変わるのだと、玲依は初めて知った。

三年間、避け続けてきた距離が、今、ほんの少しだけ縮まった気がした。

――

窓の外、曇り空から、細い雨が降り始めていた。

けれど、部屋の中の空気は、どこまでも柔らかかった。

これまでとは違う何かが、確かに、始まっていた。
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