そこにあったはずの愛
第三十九話 手を繋ぐだけなのに

夕方の空気は、まだ夏の名残りを残していた。

用もないのに、二人で外を歩くのは、初めてのことだった。

これまでは、会うたびに部屋の中で完結していた関係。

外を並んで歩くという、ただそれだけのことが、玲依にはひどく新鮮だった。

――

「何か、買うもの決めてる?」

凛が、隣で聞いてくる。

「特には。ただの気分転換」

玲依は、そう答えながら、隣を歩く凛の横顔を、そっと盗み見た。

――

歩道を、二人分の足音が並んで進んでいく。

歩幅は、自然と揃っていた。

けれど、二人の間には、不自然なほどの距離があった。

肩がぶつからない程度の、絶妙な、他人行儀な距離。

――

玲依は、自分の右手に、意識を向けていた。

隣に、凛の手がある。

ポケットに入れず、ただ、だらりと下ろされたその手。

――

繋げば良いのに。

そう思う自分に、玲依は内心、戸惑っていた。

何百回と肌を重ねてきた相手だった。

体のどこに触れられても、もう驚くことなどないはずだった。

なのに、手を繋ぐという、ただそれだけの行為に、こんなにも臆病になっている。

――

まるで、初めて恋をした少女のようだった。

自分でも、その落差が、おかしくて、少しだけ切なかった。

――

伸ばせば、届く距離だった。

指先が、触れ合うか触れ合わないかの、ほんの数センチ。

玲依は、何度も、自分の手を持ち上げようとした。

けれど、そのたびに、理由のわからない気後れが、指先を止めた。

――

もし、拒まれたら。

もし、変に思われたら。

三年間、体だけを重ねてきた関係の中で、そんな臆病さを覚えたことなど、一度もなかったはずなのに。

――

信号が、赤に変わる。

二人は、横断歩道の前で、足を止めた。

隣に立つ凛の横顔を、玲依はちらりと見た。

いつもの、軽い表情。

けれど、その視線は、どこか落ち着きなく、前方をさまよっているようにも見えた。

――

今しかない。

玲依は、そう思った。

小さく息を吸い込む。

指先に、力を込める。

――

その瞬間だった。

――

温かい指先が、玲依の手の甲に、そっと触れた。

心臓が、跳ねる。

驚いて隣を見ると、凛が、視線を逸らしたまま、耳を赤くしていた。

――

「……ダメ?」

かすれた声で、凛が聞いてくる。

いつもの余裕は、どこにもなかった。

――

玲依は、何も言わずに、その手を、そっと握り返した。

指と指の間に、隙間なく、自分の指を絡ませる。

初めての繋ぎ方だった。

――

「ダメじゃない」

やっと、そう答えることができた。

声が、少しだけ震えていた。

――

信号が、青に変わる。

けれど、二人とも、すぐには動き出さなかった。

繋いだ手のひらから伝わる体温だけが、確かな現実として、玲依の中に広がっていく。

――

「ほら」

凛が、ぽつりと呟いた。

「玲依さんの手、冷たいから。あったかいでしょ」

その一言に、玲依の胸の奥が、じんと熱くなった。

――

「……そうかもね」

素直に認めながらも、繋いだ手を、離す気にはなれなかった。

――

歩き出す。

繋いだ手を、そのままに。

これまで、何百回も肌を重ねてきたのに。

今、この手のひらの熱の方が、ずっと生々しく、玲依の胸を締め付けていた。

――

たった一つ、手を繋ぐという行為。

それだけのことが、これまでの三年間になかった、確かな「恋人」という実感を、玲依の中に、静かに刻み込んでいった。

――

夕暮れの街を、二人は、ゆっくりと歩いていく。

繋いだ手は、離れることなく、どこまでも続いていった。
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