そこにあったはずの愛
第四十一話 不器用な贈り物
「最近、忙しいの?」
夕食を終えたあと、玲依はさりげなく聞いた。
「そう? いつも通りだけど」
凛は、ソファに深く腰を沈めながら、そう答えた。
けれど、その声には、隠しきれない疲れが滲んでいた。
――
目の下に、微かな影があった。
いつもより、笑い方に力がない気がした。
「顔色、あまり良くない」
「そう? 寝不足かも」
凛は、軽く笑って誤魔化した。
それ以上、深くは聞かせないという空気が、その笑顔の裏にあった。
――
玲依は、それ以上追及しなかった。
けれど、その夜、玲依の中に、これまで感じたことのない感情が、静かに芽生えていた。
――
何か、してあげたい。
そう思ったのは、生まれて初めてのことだった。
――
玲依は、誰かに何かをねだられることには、慣れていた。
容姿を褒められることにも、贈り物をされることにも、慣れていた。
けれど、自分から何かを差し出すという発想が、これまでの人生に、ほとんど存在しなかった。
裕福な家に生まれ、家事はすべて他人の手に委ねられてきた。
社長秘書になってからも、食事は外食か、出来合いのものばかりだった。
包丁を握ったことすら、数えるほどしかなかった。
――
それでも。
玲依は、スマホでレシピを検索しながら、慣れない手つきでスーパーの袋を提げていた。
こんなことをするのは、初めてだった。
――
数日後の夜、凛が来る前に、玲依はキッチンに立っていた。
エプロンも持っていなかったから、仕事用のシャツの上に、タオルを巻きつけただけだった。
――
野菜を切る手つきは、ぎこちなかった。
大きさが不揃いで、まな板の上は、無残な有様だった。
計量スプーンの使い方すら、レシピを何度も見返さなければ分からなかった。
――
火にかけた鍋から、焦げた匂いが漂ってきたとき、玲依は初めて、心底焦った。
慌てて火を弱め、鍋の中を覗き込む。
底の方が、少し黒くなっていた。
それでも、なんとか、形にはなった。
――
インターホンが鳴ったとき、玲依は、キッチンに立ったまま、妙な緊張を覚えていた。
普段、仕事でどんな重要な交渉に臨むときよりも、今の方が、心臓が早く打っている気がした。
――
「玲依さん?」
玄関から入ってきた凛が、キッチンから漂う匂いに気づいて、目を丸くした。
「なに、この匂い」
「……夕飯、作った」
玲依は、視線を逸らしながら、そう言った。
自分の声が、いつもより小さいことに、自分自身で驚いていた。
――
凛は、しばらく、言葉を失っていた。
キッチンに近づき、テーブルに並べられた料理を、まじまじと見つめる。
決して、美しい仕上がりとは言えなかった。
野菜の切り方は不揃いで、味付けも、おそらくどこか偏っている。
――
「玲依さんが、料理?」
凛の声には、驚きと、隠しきれない笑いが混ざっていた。
「今まで、したことなかったのに」
――
「うるさい」
玲依は、少しむきになって、そう返した。
顔が、じわじわと熱くなっていくのが分かった。
「別に、大したものじゃないから。期待しないで」
――
「食べていい?」
凛が、椅子に座りながら聞いた。
その目には、からかいの色よりも、確かな喜びが滲んでいた。
「……どうぞ」
――
一口食べた凛が、少し驚いたように目を見開いた。
「美味しい」
「本当?」
「うん。ちょっと、味濃いけど」
そう言いながらも、凛は、次々と箸を進めていった。
――
その様子を見ながら、玲依は、自分の胸の奥が、じわりと温かくなっていくのを感じていた。
これまで、与えられることにしか慣れていなかった自分が、今、初めて誰かに何かを差し出している。
その事実だけで、こんなにも満たされるのだと、玲依は知らなかった。
――
「玲依さんの手料理、これから食べれるってこと?」
凛が、少し期待するような目で聞いてきた。
「毎回とは、言ってない」
「でも、また作ってくれる?」
「……気が向いたら」
素っ気なく返しながらも、玲依の口元は、自然と緩んでいた。
――
食事を終えた凛が、満足そうに息をついた。
「ごちそうさま」
その一言に、玲依の胸が、また小さく疼いた。
――
三年間、凛は、玲依の知らないところで、多くを費やしてきた。
今夜、玲依が不器用に用意したこの食卓もまた、そんな凛の日々の延長線上に、静かに置かれていた。
玲依は、そのことに、まだ気づいていない。
――
「疲れてるなら、今日はゆっくりして」
玲依は、そう言いながら、凛のグラスに水を注いだ。
不器用な優しさだった。
けれど、その不器用さこそが、玲依にとって、精一杯の贈り物だった。
――
凛は、その言葉に、小さく笑った。
「ありがとう」
その笑顔の奥に、微かな疲れの色が、まだ残っていた。
玲依は、それに気づいていた。
けれど、その理由までは、まだ知らなかった。
「最近、忙しいの?」
夕食を終えたあと、玲依はさりげなく聞いた。
「そう? いつも通りだけど」
凛は、ソファに深く腰を沈めながら、そう答えた。
けれど、その声には、隠しきれない疲れが滲んでいた。
――
目の下に、微かな影があった。
いつもより、笑い方に力がない気がした。
「顔色、あまり良くない」
「そう? 寝不足かも」
凛は、軽く笑って誤魔化した。
それ以上、深くは聞かせないという空気が、その笑顔の裏にあった。
――
玲依は、それ以上追及しなかった。
けれど、その夜、玲依の中に、これまで感じたことのない感情が、静かに芽生えていた。
――
何か、してあげたい。
そう思ったのは、生まれて初めてのことだった。
――
玲依は、誰かに何かをねだられることには、慣れていた。
容姿を褒められることにも、贈り物をされることにも、慣れていた。
けれど、自分から何かを差し出すという発想が、これまでの人生に、ほとんど存在しなかった。
裕福な家に生まれ、家事はすべて他人の手に委ねられてきた。
社長秘書になってからも、食事は外食か、出来合いのものばかりだった。
包丁を握ったことすら、数えるほどしかなかった。
――
それでも。
玲依は、スマホでレシピを検索しながら、慣れない手つきでスーパーの袋を提げていた。
こんなことをするのは、初めてだった。
――
数日後の夜、凛が来る前に、玲依はキッチンに立っていた。
エプロンも持っていなかったから、仕事用のシャツの上に、タオルを巻きつけただけだった。
――
野菜を切る手つきは、ぎこちなかった。
大きさが不揃いで、まな板の上は、無残な有様だった。
計量スプーンの使い方すら、レシピを何度も見返さなければ分からなかった。
――
火にかけた鍋から、焦げた匂いが漂ってきたとき、玲依は初めて、心底焦った。
慌てて火を弱め、鍋の中を覗き込む。
底の方が、少し黒くなっていた。
それでも、なんとか、形にはなった。
――
インターホンが鳴ったとき、玲依は、キッチンに立ったまま、妙な緊張を覚えていた。
普段、仕事でどんな重要な交渉に臨むときよりも、今の方が、心臓が早く打っている気がした。
――
「玲依さん?」
玄関から入ってきた凛が、キッチンから漂う匂いに気づいて、目を丸くした。
「なに、この匂い」
「……夕飯、作った」
玲依は、視線を逸らしながら、そう言った。
自分の声が、いつもより小さいことに、自分自身で驚いていた。
――
凛は、しばらく、言葉を失っていた。
キッチンに近づき、テーブルに並べられた料理を、まじまじと見つめる。
決して、美しい仕上がりとは言えなかった。
野菜の切り方は不揃いで、味付けも、おそらくどこか偏っている。
――
「玲依さんが、料理?」
凛の声には、驚きと、隠しきれない笑いが混ざっていた。
「今まで、したことなかったのに」
――
「うるさい」
玲依は、少しむきになって、そう返した。
顔が、じわじわと熱くなっていくのが分かった。
「別に、大したものじゃないから。期待しないで」
――
「食べていい?」
凛が、椅子に座りながら聞いた。
その目には、からかいの色よりも、確かな喜びが滲んでいた。
「……どうぞ」
――
一口食べた凛が、少し驚いたように目を見開いた。
「美味しい」
「本当?」
「うん。ちょっと、味濃いけど」
そう言いながらも、凛は、次々と箸を進めていった。
――
その様子を見ながら、玲依は、自分の胸の奥が、じわりと温かくなっていくのを感じていた。
これまで、与えられることにしか慣れていなかった自分が、今、初めて誰かに何かを差し出している。
その事実だけで、こんなにも満たされるのだと、玲依は知らなかった。
――
「玲依さんの手料理、これから食べれるってこと?」
凛が、少し期待するような目で聞いてきた。
「毎回とは、言ってない」
「でも、また作ってくれる?」
「……気が向いたら」
素っ気なく返しながらも、玲依の口元は、自然と緩んでいた。
――
食事を終えた凛が、満足そうに息をついた。
「ごちそうさま」
その一言に、玲依の胸が、また小さく疼いた。
――
三年間、凛は、玲依の知らないところで、多くを費やしてきた。
今夜、玲依が不器用に用意したこの食卓もまた、そんな凛の日々の延長線上に、静かに置かれていた。
玲依は、そのことに、まだ気づいていない。
――
「疲れてるなら、今日はゆっくりして」
玲依は、そう言いながら、凛のグラスに水を注いだ。
不器用な優しさだった。
けれど、その不器用さこそが、玲依にとって、精一杯の贈り物だった。
――
凛は、その言葉に、小さく笑った。
「ありがとう」
その笑顔の奥に、微かな疲れの色が、まだ残っていた。
玲依は、それに気づいていた。
けれど、その理由までは、まだ知らなかった。