そこにあったはずの愛
第四十二話 初めて意識した

会議室に差し込む午後の光が、資料の白さを、いっそう際立たせていた。

桐生颯斗は、テーブルの向こうに座る秘書の姿を、いつものように視界の端に置いていた。

――

黒崎玲依。

三十八歳の颯斗にとって、二十五歳の彼女は、単なる有能な部下に過ぎなかった。

これまでは。

――

「桐生さん、次のスケジュールですが」

玲依の声が、いつも通り、淀みなく響く。

隙のない話し方、無駄のない所作。

颯斗が、これまで何百回と見てきた、いつもの玲依だった。

――

けれど。

資料をめくる指先の動きに、颯斗は、ふと目を留めた。

いつもより、どこか、柔らかい。

――

説明を続ける玲依の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。

仕事上の、社交的な笑みとは、少し質感が違う。

もっと、内側から滲み出るような。

――

颯斗は、資料に目を落としたふりをしながら、思考を巡らせていた。

いつからだろう。

この、纏う空気の変化に、気づいたのは。

――

三年前、颯斗が起業した会社に、玲依が秘書として入ってきた。

以来、颯斗は、彼女の仕事ぶりだけを見てきた。

寸分の隙もない、完璧な仕事人としての姿。

その裏側にある人間としての彼女には、これまで一度も、目を向けたことがなかった。

――

「以上になります」

玲依が、資料を閉じて、颯斗を見た。

視線が、正面から交わる。

――

その瞬間、颯斗は、小さな違和感を覚えた。

以前の玲依の目には、常に、どこか張り詰めたものがあった。

隙を見せまいとする、緊張の糸のようなもの。

――

今、その糸が、少しだけ緩んでいる。

――

「桐生さん?」

玲依が、怪訝そうに首を傾げた。

颯斗が、資料を見たまま、黙り込んでいたからだった。

「……いや、何でもない」

颯斗は、我に返ったように、資料に視線を戻した。

自分でも、驚いていた。

こんなふうに、彼女の顔を、じっと見つめてしまったことに。

――

会議が終わり、玲依が会議室を出ていく。

その後ろ姿を、颯斗は、しばらく目で追っていた。

――

これまで、彼女を、女性として意識したことは、一度もなかった。

有能な秘書。

信頼できる部下。

それ以上でも、それ以下でもなかったはずだった。

――

けれど。

今、颯斗の中に、何か小さな引っかかりが、生まれていた。

――

夜、オフィスに一人残った颯斗は、パソコンの画面を見つめながら、ふと、今日の玲依の表情を思い出していた。

あの、柔らかな笑み。

一体、何が、彼女をあんなふうに変えたのだろう。

――

颯斗は、これまで、女性関係において、常に主導権を握ってきた。

自分から興味を持ち、自分から動く。

そうやって、これまでの人生を、思い通りに切り開いてきた。

――

けれど、今回芽生えた感情は、これまでのそれとは、少し違っていた。

明確な下心というより、もっと純粋な、興味だった。

彼女という人間の、まだ知らない部分への。

――

颯斗は、椅子の背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。

そういえば、彼女のプライベートを、自分は何も知らない。

恋人がいるのかどうかさえ、考えたこともなかった。

――

けれど、今日感じたあの柔らかさは、間違いなく、誰かの存在を示唆していた。

――

小さく、口の端が上がる。

これまで感じたことのない種類の、好奇心だった。

――

もし、彼女に、誰かがいるのだとしたら。

その相手が、どんな人間なのか。

その存在が、玲依にとって、どれほどのものなのか。

――

颯斗は、自分の中に芽生えたこの感情の名前を、まだ、はっきりとは言葉にできずにいた。

けれど、それが、これから先、静かに、しかし確実に大きくなっていくだろうことだけは、なぜか、確信していた。

――

窓の外、夜景が、無数の光を瞬かせていた。

その光の中に、颯斗は、今日見た玲依の笑顔を、もう一度、重ねていた。

――

玲依は、まだ、何も知らない。

自分に向けられ始めた、新しい視線の存在すら。
< 42 / 111 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop