そこにあったはずの愛
第四十三話 名前のない感情
会社に残っているのは、もう二人だけだった。
窓の外は、とうに日が落ちている。
間接照明だけが灯る室内で、颯斗のデスク周りだけが、白く浮かび上がっていた。
――
「桐生さん、この資料、明日の朝一で確認お願いできますか」
玲依が、書類の束を差し出しながら言った。
いつも通りの、事務的な声。
けれど、颯斗の意識は、いつからか、その声色の微妙な変化を拾うようになっていた。
――
「ああ、ありがとう」
書類を受け取りながら、颯斗は、ちらりと玲依の顔を見た。
疲れているはずなのに、その表情には、以前のような張り詰めた硬さがなかった。
――
このところ、ずっとそうだった。
会議中の、ふとした瞬間の笑み。
書類をめくる、柔らかな指の動き。
三年間、変わらなかったはずの何かが、確実に変わっていた。
――
「桐生さんも、そろそろ帰った方が」
玲依が、時計に目をやりながら言う。
「もう少しだけ」
颯斗は、パソコンの画面に視線を戻しながら、そう答えた。
本当は、資料の確認など、すぐに終わる作業だった。
けれど、なぜか、まだ席を立ちたくなかった。
――
「お茶、淹れましょうか」
「頼む」
短いやりとりの中に、これまでとは違う何かが、確かに滲んでいた。
――
キッチンスペースに向かう玲依の後ろ姿を、颯斗は目で追った。
社長室の隅、給湯コーナーの小さな明かりが、彼女の輪郭を、静かに縁取っている。
――
三年間、毎日のように見てきた背中だった。
なのに、今、初めて見る光景のように感じられた。
――
戻ってきた玲依が、マグカップをデスクに置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
指先が、一瞬、触れそうになった。
――
颯斗は、咄嗟に手を引いた。
自分でも、その反応に戸惑った。
なぜ、こんな些細な接触に、動揺しているのか。
――
「桐生さん?」
「……いや、何でもない」
誤魔化すように、マグカップを口に運ぶ。
けれど、心臓が、いつもより速く打っているのが、自分でも分かった。
――
玲依が、颯斗のデスクの少し離れた場所に置かれたソファに、腰を下ろした。
「少し、休憩してもいいですか」
「もちろん」
――
静かな社長室に、二人分の呼吸だけが、微かに聞こえていた。
颯斗は、目の前の玲依を、まじまじと見つめてしまっていた。
――
「顔に何か、ついてます?」
玲依が、怪訝そうに、自分の頬に触れた。
「いや」
颯斗は、視線を逸らした。
らしくない、と自分でも思った。
こんなふうに、女性の視線を避けたことなど、これまでなかった。
――
「最近、変わったな、と思って」
気づけば、そんな言葉が、口をついて出ていた。
「変わった?」
「以前より、柔らかくなった。表情が」
――
玲依の目が、一瞬、大きく見開かれた。
すぐに、いつもの落ち着いた表情に戻ったけれど、その一瞬の動揺を、颯斗は見逃さなかった。
――
「……そう、ですか」
玲依は、視線を、マグカップに落とした。
それ以上、深くは語らない、という空気があった。
――
颯斗は、それ以上、追及しなかった。
けれど、この反応こそが、答えのように思えた。
――
何か、あるのだ。
彼女の中に。
これまで見せたことのなかった表情を、引き出している何かが。
――
その事実に、颯斗の中で、小さな熱が生まれた。
嫉妬とも、対抗心とも、まだ名前のつけられない感情。
――
「休憩、終わりにしましょうか」
玲依が、席を立った。
「ああ」
颯斗は、その背中を、また目で追った。
――
一人残された社長室で、颯斗は、椅子の背もたれに深く体を預けた。
天井を見上げながら、今夜感じた、あの動揺の正体を、静かに探る。
――
指先が触れそうになった、あの一瞬の緊張。
顔をじっと見つめてしまった、あの数秒間。
彼女の変化に、こんなにも心を揺らされている自分。
――
これは、もう。
颯斗は、静かに、けれど確かに、その事実を認めた。
――
好奇心などという、生易しいものではなかった。
これは、恋だった。
――
自覚した瞬間、颯斗の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
自嘲でもあり、確かな高揚でもあった。
――
これまでの人生で、颯斗は、欲しいものを手に入れられなかったことがなかった。
会社も、地位も、女も、すべて、自分の意志で掴み取ってきた。
――
彼女の中に何があるのか、まだ分からない。
けれど、颯斗の中で、静かな決意が固まりつつあった。
――
知りたい。
彼女の変化の理由を。
そして、できることなら。
その理由が何であれ、自分がそれを超えられないはずがない、と。
――
窓の外、夜景が、変わらず輝いていた。
その光を見つめながら、颯斗は、これから自分が踏み出そうとしている一歩の重さを、静かに噛み締めていた。
会社に残っているのは、もう二人だけだった。
窓の外は、とうに日が落ちている。
間接照明だけが灯る室内で、颯斗のデスク周りだけが、白く浮かび上がっていた。
――
「桐生さん、この資料、明日の朝一で確認お願いできますか」
玲依が、書類の束を差し出しながら言った。
いつも通りの、事務的な声。
けれど、颯斗の意識は、いつからか、その声色の微妙な変化を拾うようになっていた。
――
「ああ、ありがとう」
書類を受け取りながら、颯斗は、ちらりと玲依の顔を見た。
疲れているはずなのに、その表情には、以前のような張り詰めた硬さがなかった。
――
このところ、ずっとそうだった。
会議中の、ふとした瞬間の笑み。
書類をめくる、柔らかな指の動き。
三年間、変わらなかったはずの何かが、確実に変わっていた。
――
「桐生さんも、そろそろ帰った方が」
玲依が、時計に目をやりながら言う。
「もう少しだけ」
颯斗は、パソコンの画面に視線を戻しながら、そう答えた。
本当は、資料の確認など、すぐに終わる作業だった。
けれど、なぜか、まだ席を立ちたくなかった。
――
「お茶、淹れましょうか」
「頼む」
短いやりとりの中に、これまでとは違う何かが、確かに滲んでいた。
――
キッチンスペースに向かう玲依の後ろ姿を、颯斗は目で追った。
社長室の隅、給湯コーナーの小さな明かりが、彼女の輪郭を、静かに縁取っている。
――
三年間、毎日のように見てきた背中だった。
なのに、今、初めて見る光景のように感じられた。
――
戻ってきた玲依が、マグカップをデスクに置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
指先が、一瞬、触れそうになった。
――
颯斗は、咄嗟に手を引いた。
自分でも、その反応に戸惑った。
なぜ、こんな些細な接触に、動揺しているのか。
――
「桐生さん?」
「……いや、何でもない」
誤魔化すように、マグカップを口に運ぶ。
けれど、心臓が、いつもより速く打っているのが、自分でも分かった。
――
玲依が、颯斗のデスクの少し離れた場所に置かれたソファに、腰を下ろした。
「少し、休憩してもいいですか」
「もちろん」
――
静かな社長室に、二人分の呼吸だけが、微かに聞こえていた。
颯斗は、目の前の玲依を、まじまじと見つめてしまっていた。
――
「顔に何か、ついてます?」
玲依が、怪訝そうに、自分の頬に触れた。
「いや」
颯斗は、視線を逸らした。
らしくない、と自分でも思った。
こんなふうに、女性の視線を避けたことなど、これまでなかった。
――
「最近、変わったな、と思って」
気づけば、そんな言葉が、口をついて出ていた。
「変わった?」
「以前より、柔らかくなった。表情が」
――
玲依の目が、一瞬、大きく見開かれた。
すぐに、いつもの落ち着いた表情に戻ったけれど、その一瞬の動揺を、颯斗は見逃さなかった。
――
「……そう、ですか」
玲依は、視線を、マグカップに落とした。
それ以上、深くは語らない、という空気があった。
――
颯斗は、それ以上、追及しなかった。
けれど、この反応こそが、答えのように思えた。
――
何か、あるのだ。
彼女の中に。
これまで見せたことのなかった表情を、引き出している何かが。
――
その事実に、颯斗の中で、小さな熱が生まれた。
嫉妬とも、対抗心とも、まだ名前のつけられない感情。
――
「休憩、終わりにしましょうか」
玲依が、席を立った。
「ああ」
颯斗は、その背中を、また目で追った。
――
一人残された社長室で、颯斗は、椅子の背もたれに深く体を預けた。
天井を見上げながら、今夜感じた、あの動揺の正体を、静かに探る。
――
指先が触れそうになった、あの一瞬の緊張。
顔をじっと見つめてしまった、あの数秒間。
彼女の変化に、こんなにも心を揺らされている自分。
――
これは、もう。
颯斗は、静かに、けれど確かに、その事実を認めた。
――
好奇心などという、生易しいものではなかった。
これは、恋だった。
――
自覚した瞬間、颯斗の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
自嘲でもあり、確かな高揚でもあった。
――
これまでの人生で、颯斗は、欲しいものを手に入れられなかったことがなかった。
会社も、地位も、女も、すべて、自分の意志で掴み取ってきた。
――
彼女の中に何があるのか、まだ分からない。
けれど、颯斗の中で、静かな決意が固まりつつあった。
――
知りたい。
彼女の変化の理由を。
そして、できることなら。
その理由が何であれ、自分がそれを超えられないはずがない、と。
――
窓の外、夜景が、変わらず輝いていた。
その光を見つめながら、颯斗は、これから自分が踏み出そうとしている一歩の重さを、静かに噛み締めていた。