そこにあったはずの愛
第四十四話 幸せの温度

「今日、会える?」

仕事帰りの車内で、玲依はスマホを取り出し、そう打ち込んだ。

送信してから、少しだけ気恥ずかしくなった。

こんなふうに、自分から会いたいと伝えることが、これまでの人生に、ほとんどなかったからだった。

――

返信は、すぐに来た。

『行く』

たった二文字。

それだけで、玲依の一日の疲れが、すっと軽くなった気がした。

――

三年間、二人の間には、暗黙のルールがあった。

会うのは、凛の都合がついたときだけ。

玲依から誘うことは、ほとんどなかった。

体だけの関係だった頃、それが二人にとっての、ちょうどいい距離感だった。

――

けれど、恋人になってから、その距離感は、少しずつ変わっていった。

会いたい、と思う頻度が、明らかに増えていた。

週に一度だったものが、二度になり、三度になり。

気づけば、ほとんど毎日のように、どちらかが連絡を取っていた。

――

その夜、玲依のマンションを訪れた凛は、いつも通りの笑顔を見せた。

「お待たせ」

「ううん、全然」

玄関で出迎えた玲依に、凛は、軽くキスを落とした。

もう、当たり前になった仕草だった。

――

けれど、その顔を、玲依はふと、じっと見つめた。

「……大丈夫?」

「え、何が」

「なんか、疲れてる、顔」

――

凛は、一瞬だけ、目を逸らした。

「ああ、ちょっと、バイトが忙しくて」

軽い口調で、そう答える。

いつもの、はぐらかすような笑い方だった。

――

「無理してない?」

「してないって」

凛は、玲依の頬に触れながら、笑った。

「玲依さんに会えるなら、全然、平気」

――

その言葉に、玲依の胸が、じんと温かくなった。

けれど、同時に、微かな引っかかりも残った。

目の下に、薄っすらと影がある。

以前よりも、明らかに濃くなっている気がした。

――

「ちゃんと、寝てる?」

「寝てるよ、ちゃんと」

凛は、あっさりとそう答えた。

その口調に、深く追及させない、絶妙な軽さがあった。

――

玲依は、それ以上、聞くのをやめた。

疲れているなら、休ませてあげたい。

そう思う一方で、会えることが嬉しくて、玲依自身も、凛を引き止めたい気持ちを、消せずにいた。

――

ソファに並んで座り、他愛のない話をする時間。

これまでの三年間、こんな穏やかな時間は、一度もなかった。

体を重ねることが目的ではなく、ただ、隣にいるだけの時間。

玲依にとって、それは、何よりも贅沢なことだった。

――

「玲依さんと、こうしてる時間、好き」

凛が、玲依の肩に頭を預けながら、ぽつりと言った。

「私も」

玲依は、その頭を、そっと撫でた。

――

けれど、撫でながら、玲依は、凛の呼吸が、いつもよりゆっくりであることに気づいた。

見ると、凛は、いつの間にか、眠りに落ちていた。

――

疲れているのだろう、と玲依は思った。

けれど、それ以上、深く考えることはなかった。

大学とバイトの両立で、忙しいのだろう。

それくらいの、軽い認識だった。

――

眠る凛の顔を、玲依は、しばらく見つめていた。

無防備な寝顔。

こんな顔を見られるようになったことが、まだ、信じられなかった。

――

窓の外、夜が更けていく。

玲依は、そっと毛布を持ってきて、凛の肩にかけた。

起こさないように、静かに。

――

幸せだった。

これまでの人生で、一番、満たされている実感があった。

会いたいと思えば会える。

触れたいと思えば触れられる。

名前を呼べば、応えてくれる。

――

そのすべてが、当たり前ではなかったことを、玲依は、今、身をもって知っていた。

――

けれど。

眠る凛の、微かに疲れの滲んだ横顔を見つめながら、玲依の胸の奥に、小さな影が、そっと差し込んでいた。

それが何なのか、玲依はまだ、言葉にできずにいた。
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