そこにあったはずの愛
第四十六話 秘密の視線

土曜日の午後、玲依は、見慣れた街の一角に立っていた。

小さなカフェの看板。

木の扉に、控えめなベルの音。

――

このカフェには、何度も通った。

まだ、凛のことを何も知らなかった頃から。

あの日、この店で、凛と出会った。

――

けれど、恋人として、この扉をくぐるのは、今日が初めてだった。

そう思うと、いつもの見慣れた景色が、少し違って見える気がした。

――

扉を開けると、コーヒーの香りが、ふわりと鼻をくすぐった。

店内は、こぢんまりとしていて、落ち着いた雰囲気だった。

――

カウンターの奥に、白いシャツに黒いエプロン姿の凛が、立っていた。

――

普段とは、違う顔だった。

背筋を伸ばし、丁寧な所作でコーヒーを淹れる姿。

いつもの、少し崩れた笑い方ではなく、きちんとした、大人びた表情。

――

玲依の心臓が、小さく跳ねた。

見慣れているはずの光景なのに、今日は、いつもと違って見えた。

恋人としてこの顔を見るのは、初めてだった。

――

「いらっしゃいませ」

凛が、顔を上げる。

一瞬、その目が、大きく見開かれた。

「……玲依さん」

驚きを隠しきれない声だった。

けれど、すぐに、接客用の笑みへと切り替わる。

「お一人様ですか」

その声色の切り替えの早さに、玲依は、内心で小さく笑ってしまった。

――

「一人です」

わざと、他人行儀な口調で答える。

凛の口元が、微かに引きつった。

こういう悪戯を仕掛けたくなる自分に、玲依自身、少し驚いていた。

――

窓際の席に案内される。

すれ違いざま、凛の指先が、玲依の手の甲に、ほんの一瞬だけ触れた。

誰にも気づかれない、ごく微かな接触。

それだけで、玲依の頬に、じわりと熱が上った。

――

メニューを開く。

凛が、少し離れた場所から、こちらの様子を伺っているのが分かった。

視線が、合う。

すぐに、逸らされる。

――

その一連の動きが、いちいち、玲依の胸を締め付けた。

普段、堂々と目を合わせてくる凛が、今は、まるで初心な少年のように、視線を泳がせている。

――

「ご注文、お伺いします」

やってきた凛が、業務用の笑顔で聞いてくる。

「カフェラテを」

「かしこまりました」

その受け答えの間、二人の視線は、一度も交わらなかった。

けれど、メニューを下げる瞬間、凛の指先が、ほんの一瞬、玲依の指先をかすめた。

誰にも見えない、二人だけの合図だった。

――

しばらくして、運ばれてきたカフェラテ。

カップの縁に、小さなラテアートが描かれていた。

ハートの形。

玲依は、思わず、口元を緩めた。

――

顔を上げると、少し離れたカウンターの奥で、凛が、こちらをちらりと見て、悪戯っぽく笑っていた。

すぐに、店長らしき人物に声をかけられ、その笑顔を、慌てて引っ込める。

その一連の様子が、また、玲依の胸を、きゅうっと締め付けた。

――

カフェラテを飲みながら、玲依は、しばらくの間、働く凛の姿を眺めていた。

丁寧に接客をこなす姿。

同僚と、軽口を交わしながら笑う姿。

普段、二人きりのときには見せない、社会の中で生きる凛の姿。

――

何度も見てきたはずの光景なのに、今日は、これまでとまるで違う意味を持って、玲依の目に映っていた。

その姿を見ているだけで、玲依の中に、じわじわと、愛しさが広がっていった。

――

店内が、一時、静かになった。

他の客が、次々と席を立っていく。

凛が、こっそりと、玲依の席に近づいてきた。

――

「バレたら怒られるから、一瞬だけ」

そう囁きながら、凛は、素早く、玲依の頭にそっと触れた。

「可愛い格好で来てくれて、ありがとう」

――

耳元で囁かれた一言に、玲依の心臓が、大きく跳ねた。

「……仕事中でしょ」

「今だけ」

凛は、悪戯っぽく笑うと、すぐに、何事もなかったかのように、カウンターへ戻っていった。

――

その背中を見つめながら、玲依は、自分の顔が、真っ赤になっているのを感じていた。

こんなふうに、些細な触れ合いだけで、こんなにも心を揺さぶられるなんて。

――

閉店間際、最後の客として店を出るとき、凛が、こっそりと耳打ちした。

「今夜、行くから」

「待ってる」

短いやりとりだった。

けれど、それだけで、玲依の胸は、いっぱいになった。

――

店の外に出て、夕暮れの空を見上げる。

今日という一日が、これまでのどんな日よりも、幸福に満ちていた気がした。

――

誰にも知られない、二人だけの秘密の視線。

その積み重ねが、こんなにも甘く、こんなにも胸を焦がすものだと、玲依は、今日、初めて知った。
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