そこにあったはずの愛
第四十八話 口実

「今週の、東鋼商事との会食なんだが」

颯斗は、書類を眺めながら、さりげなく切り出した。

「黒崎も同席してくれ」

――

玲依が、資料から顔を上げた。

「私も、ですか」

「先方の担当者が変わったばかりで、細かい経緯を把握しているのは、黒崎だけだ」

――

嘘ではなかった。

けれど、それだけが理由ではないことを、颯斗自身は、よく分かっていた。

――

「かしこまりました」

玲依は、特に疑う様子もなく、頷いた。

颯斗は、その反応に、少しだけ安堵し、そして、その安堵している自分に、内心、苦笑した。

――

会食当日、高級料亭の個室。

先方の重役と、和やかに会話が進んでいく。

玲依は、いつも通り、隙のない立ち振る舞いで、場を支えていた。

――

颯斗は、談笑しながらも、視線の端で、玲依の様子を追っていた。

先方の話に相槌を打つ声、微笑む表情、時折挟む的確な補足。

その完璧さに、颯斗は、これまで何度も助けられてきた。

――

けれど今夜、颯斗の目に映る玲依は、単なる有能な秘書としてではなかった。

一人の女性として、その所作の一つ一つが、颯斗の意識に、静かに引っかかっていった。

――

会食が終わり、先方を見送る。

「今日は、ありがとう。助かった」

「いえ、当然のことです」

玲依は、いつも通りの、事務的な返事をした。

――

「せっかくだ。車で送る」

颯斗は、そう言って、玲依を促した。

本来なら、玲依は電車で帰るのが常だった。

けれど、今夜だけは、その提案を、颯斗は譲らなかった。

――

車内。

運転手が、静かにハンドルを握っている。

隣に座る玲依との距離は、仕事上の範囲を超えることはない。

けれど、颯斗の意識は、その距離そのものに、いつになく敏感になっていた。

――

「休日は、何をしてる?」

信号待ちの静寂の中、颯斗は、努めて何気なく、そう聞いた。

――

玲依が、一瞬、驚いたように颯斗を見た。

こんな質問をされたのは、初めてだった。

「……特に、これといって」

――

「趣味とか、そういうのは」

「……あまり、ないですね」

玲依の返事は、簡潔だった。

踏み込ませない、というより、単に、深く語る習慣がないような、素っ気なさだった。

――

颯斗は、それ以上、強くは聞かなかった。

けれど、その素っ気なさの奥に、何かが隠されているような気がしてならなかった。

――

「三年も一緒に働いてるのに、黒崎のプライベートを、俺はほとんど知らないんだな」

「秘書ですから」

玲依は、当然のことのように、そう答えた。

「必要なのは、桐生さんの予定を把握することであって、私自身のことじゃありません」

――

その言い切り方に、颯斗は、小さく笑った。

「相変わらず、隙がないな」

「褒め言葉として受け取っておきます」

――

軽いやり取りだったけれど、颯斗の中では、確かな熱を伴った感情が、静かに渦を巻いていた。

――

車が、玲依のマンション前に着く。

「今日は、助かった。ゆっくり休んでくれ」

「桐生さんも」

玲依が、車を降りていく。

その後ろ姿を、颯斗は、窓越しに、しばらく見送った。

――

車が、再び走り出す。

颯斗は、座席に深く体を預け、目を閉じた。

――

たった数分の、他愛のない会話だった。

けれど、その短いやり取りの中で、玲依という人間の輪郭が、少しだけ、はっきりと見えた気がした。

隙のない仕事人の顔の奥に、まだ誰にも見せていない、別の顔がある。

――

その顔を、見てみたい。

颯斗は、自分の中に生まれたその欲求を、もう、否定しなかった。

――

これまで、颯斗にとって、欲しいものを手に入れる方法は、いつも単純だった。

真っ直ぐに、望むものへと近づく。

けれど、今回に限っては、性急に動くべきではないという直感があった。

――

秘書としての彼女は、これ以上ないほど、完璧に築き上げられている。

その関係を、性急な感情で壊してしまえば、元も子もない。

――

だから、颯斗は、待つことにした。

けれど、待つことと、諦めることは、まったく違う。

――

次の機会を、颯斗は、静かに、しかし確実に、考え始めていた。

もっと近づくための、次の口実を。

――

窓の外を流れる夜景を見つめながら、颯斗の口元には、これまでとは違う種類の、静かな決意が浮かんでいた。
< 48 / 111 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop