そこにあったはずの愛
第四十九話 個人的な誘い

定時を過ぎた社長室。

書類の最終確認を終え、玲依が退室しようとしたとき、桐生が、ふと顔を上げた。

「黒崎」

「はい」

「今日はもう、仕事の話は抜きにして、飯でも行かないか」

――

一瞬、間が空いた。

「……私と、ですか」

「ああ」

桐生は、軽く笑いながら、頷いた。

「たまには、労いも兼ねて。三年、よく尽くしてくれてる」

――

断る理由が、うまく見つからなかった。

上司からの誘いを無下にする方が、かえって不自然に思えた。

「では、お言葉に甘えて」

玲依は、そう答えるしかなかった。

――

案内された店は、これまでの会食で使われるような大人数向けの個室ではなく、落ち着いた雰囲気の、二人用の席だった。

その時点で、玲依の中に、微かな違和感が生まれていた。

けれど、その違和感の正体を、うまく言葉にできなかった。

――

料理が運ばれ、当たり障りのない会話が始まる。

最近の業界の動向、会社の今後の展望。

いつも通りの話題に、玲依は、いつも通りに応じていた。

――

けれど、途中から、話の方向が、少しずつ変わっていった。

「そういえば、黒崎の家族の話は、聞いたことがなかったな」

――

グラスを持つ玲依の手が、一瞬、止まった。

「……特に、話すようなことは」

「実家、東京?」

「……そうです」

短く答えながら、玲依は、視線をグラスに落とした。

継母の顔が、脳裏をよぎる。

大事にされていたことは、頭では分かっていた。

けれど、その愛情を、素直に受け取れなかった過去。

――

「兄弟は?」

「……妹が、います」

一瞬、言い淀んでから、玲依は、そう答えた。

「七つ下の」

それ以上は、続けなかった。

異母妹という言葉を、玲依は、あえて口にしなかった。

言葉が、いつもより、硬くなっていた。

自分でも、その硬さに気づいていた。

――

桐生は、それ以上、深くは聞かなかった。

けれど、玲依の反応の変化を、見逃してはいなかった。

――

「学生時代は、どんな感じだったんだ」

話題を変えるように、桐生が続けた。

けれど、それもまた、玲依にとっては、答えにくい質問だった。

――

「……普通、でしたよ」

嘘だった。

普通ではなかった。

誰彼構わず、自分を粗末に扱っていた時期があった。

その記憶は、今でも、玲依の中に、消えない棘として残っている。

――

「普通、か」

桐生が、繰り返すように呟いた。

その口調に、深い意味はなさそうだった。

けれど、玲依には、その言葉が、いやに重く響いた。

――

「黒崎って、意外と、自分のことは話したがらないんだな」

軽い口調だった。

けれど、玲依は、その一言に、内心、動揺していた。

――

「別に、話したくないわけじゃないんです」

玲依は、そう前置きしてから、続けた。

「秘書ですから。必要なのは、桐生さんのことを知ることであって」

いつもの答え方で、玲依は、話題を締めくくろうとした。

――

けれど、桐生は、その返答に、小さく笑うだけで、それ以上、食い下がらなかった。

「そうか」

短い相槌。

けれど、その視線が、いつもより少し長く、玲依の顔に留まっていることに、玲依は、なんとなく気づいていた。

――

食事を終え、店を出る。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。付き合わせて悪かったな」

桐生の声には、いつも通りの、余裕のある調子が戻っていた。

――

車に乗り込みながら、玲依は、今夜の会話を、ぼんやりと振り返っていた。

――

なんだか、いつもと違った。

業務的な会話とは、明らかに温度が違っていた。

けれど、それが具体的に何なのか、玲依には、うまく説明がつかなかった。

――

考えすぎだろう。

玲依は、そう結論づけて、車窓の外に視線を移した。

流れていく夜景を見つめながら、頭の片隅に残る違和感を、静かに押しやった。

――

その夜、桐生の視線が、これまでとは違う温度を帯びていたことに、玲依は、まだ、気づいていなかった。
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