そこにあったはずの愛
第五十話 知らない世界

バイトを終え、アパートへの帰り道。

凛は、歩きながらスマホを取り出し、玲依にメッセージを送った。

『今日、会える?』

いつもと変わらない、何気ない一言だった。

――

既読は、すぐにはつかなかった。

まだ仕事中だろう、と凛は思った。

そのまま、コンビニに寄り、夕飯代わりのおにぎりを買う。

――

部屋に戻っても、既読はつかないままだった。

時計を見ると、いつも玲依が仕事を終える時間を、とうに過ぎていた。

――

凛は、ベッドに寝転がりながら、スマホの画面を、何度も確認した。

既読は、まだ、つかない。

――

珍しいな、と思った。

いつもなら、遅くても、この時間には返信がある。

――

不安、というほどのものではなかった。

ただ、少しだけ、落ち着かない気持ちが、胸の奥に生まれていた。

――

玲依の仕事は、大手企業の社長秘書だった。

その言葉の重みを、凛は、頭では理解していた。

けれど、実感として、うまく想像できたことは、一度もなかった。

――

自分が知っているのは、玲依の部屋での顔だけだった。

隙のないスーツ姿で、颯爽と社会を渡り歩く玲依の姿は、想像の中でしか、見たことがなかった。

――

高層ビルの中で行われる会議。

経済界の重役たちが集まる会食。

自分とは、生きている世界の階層が、根本的に違う場所。

――

凛は、天井を見つめながら、そんな光景を、ぼんやりと思い描いた。

その世界の中に、玲依が、当たり前のように立っている。

――

自分は、その世界のことを、何も知らない。

知る術も、ない。

――

三年前、初めて会ったときから、ずっとそうだった。

玲依が身につけているものの価値も、口にする言葉の端々に滲む育ちの違いも、凛には、遠い世界の話でしかなかった。

――

それでも、これまでは、気にしないようにしてきた。

体だけの関係だった頃は、そんなことを考える必要すら、なかった。

けれど今は、違う。

――

恋人になった今、玲依の生活のすべてが、自分にとって、無関係ではいられなくなっていた。

――

スマホが、震えた。

凛は、飛びつくように、画面を確認した。

――

『ごめん、仕事で少し遅くなった』

たった一言だった。

――

安堵が、胸に広がる。

けれど、その安堵の裏側に、まだ、消えない小さな引っかかりが残っていた。

――

『大丈夫? 今日は疲れたから、また今度でもいい?』

続けて、そんな一文が届く。

――

「うん、また今度」

凛は、そう返信を打ちながら、スマホの画面を、しばらく見つめていた。

――

いつもなら、何とも思わない、他愛のないやり取りだった。

けれど今夜は、その短い文面の向こうにある、自分の知らない時間の存在を、いやに強く意識してしまっていた。

――

玲依が今日、どこで、誰と、どんな時間を過ごしていたのか。

凛には、想像することしかできなかった。

――

その想像の中に、自分の姿は、どこにもなかった。

――

天井を見上げながら、凛は、小さく息を吐いた。

――

自分は、玲依の世界の、ほんの一部にしか、触れられていない。

そのことを、今夜、改めて、思い知らされた気がした。

――

けれど、それを口にする資格が、自分にあるのかどうか。

凛には、まだ、分からなかった。
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