そこにあったはずの愛
第五十一話 気づいてしまった予感

朝の社長室は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。

玲依は、いつも通りにスケジュールを確認し、資料を整理する。

けれど、その一連の動作の合間に、ふと、意識が、別のところへ逸れていく瞬間があった。

――

「これ、確認してもらえるか」

桐生が、書類を差し出しながら、そう言った。

受け取ろうとした玲依の指先に、桐生の指が、ほんの一瞬、触れる。

――

「失礼しました」

桐生は、何事もなかったかのように、手を引いた。

けれど、その一瞬の接触に、玲依は、内心、小さな引っかかりを覚えた。

――

以前なら、気にも留めなかったはずだった。

書類の受け渡しで、指先が触れることなど、これまでにも、何度もあった。

――

けれど、今は、違った。

その些細な接触の一つ一つが、玲依の意識の中で、静かに積み重なっていく。

――

会議室に向かう途中、桐生が、ふと足を止めて、玲依を見た。

「今日は、体調どうだ」

「問題ありません」

「顔色、少し良くなったな。この間より」

――

この間、というのは、家族の話を聞かれたときのことだろうか。

玲依は、瞬時にそう理解した。

覚えている。

あの日の会話の細部を、桐生は、ちゃんと覚えている。

――

その事実に、玲依の背筋が、微かに強張った。

普通の上司なら、部下の顔色の変化を、そこまで細やかに覚えてはいない。

――

会議中、玲依は、資料をめくりながら、桐生の視線を、意識せずにはいられなかった。

説明をする自分の顔に、桐生の視線が、いつもより長く留まっている気がする。

――

錯覚だろうか。

玲依は、そう自分に言い聞かせようとした。

けれど、一度そう意識してしまうと、疑いは、簡単には消えなかった。

――

昼休み、社員食堂。

いつもの席で、彩奈と向かい合う。

「最近、桐生さんと、よく一緒にいるよね」

彩奈が、何気なく、そう切り出した。

――

「仕事だから」

玲依は、すぐにそう答えた。

けれど、その反応の速さに、彩奈は、少し目を細めた。

――

「まあ、そうだろうけど。あの人、玲依のこと、目で追ってる時、あるよ」

――

その一言に、玲依の心臓が、跳ねた。

「……気のせいでしょ」

「かもね」

彩奈は、それ以上、深くは追及しなかった。

けれど、その言葉が、玲依の中で、確かな棘として残った。

――

午後、社長室に戻る。

一人、デスクに向かいながら、玲依は、これまでの断片を、静かに整理し始めた。

――

会食への同行。

業務の枠を超えた誘い。

家族について、学生時代について、踏み込んだ質問。

いつもより長く、自分に注がれる視線。

彩奈の指摘。

――

一つ一つは、些細なことだった。

けれど、それらを繋ぎ合わせると、一つの輪郭が、静かに浮かび上がってくる。

――

まさか。

そう思う一方で、玲依の中には、否定しきれない確信も、同時に生まれていた。

――

これまでの人生で、玲依は、好意を向けられることに、慣れていた。

容姿を褒められることも、贈り物をされることも、当たり前のように受け流してきた。

けれど今、感じているこの警戒は、これまでのそれとは、まったく質が違っていた。

――

桐生は、簡単に振り払える相手ではなかった。

三年間、共に築いてきた信頼関係。

会社での立場。

すべてが、複雑に絡み合っている。

――

もし、桐生の好意が、本当にあるのだとしたら。

その事実を、どう扱うべきなのか。

無視すれば、いずれ、避けられない形で表面化するかもしれない。

かといって、はっきりと拒絶すれば、これまで築いてきた仕事上の関係が、崩れかねない。

――

玲依は、椅子の背もたれに、深く体を預けた。

目を閉じ、頭の中を整理しようとする。

けれど、考えれば考えるほど、明確な答えは、見つからなかった。

――

ふと、脳裏に、凛の顔が浮かんだ。

――

その瞬間、玲依の胸の奥に、確かな温度が戻ってきた。

――

凛がいる。

この不確かな状況の中で、唯一、玲依が迷わず信じられるもの。

――

桐生の視線がどうであろうと、玲依の心が揺らぐことは、ない。

それだけは、はっきりとしていた。

――

けれど、同時に、玲依は、この状況の厄介さを、痛感していた。

自分の気持ちが揺らがないことと、この状況そのものが問題にならないことは、まったく別の話だった。

――

桐生の好意が本物であるならば、それは、いずれ、何らかの形で、二人の関係に影を落とすかもしれない。

そして、その影は、凛にまで、及ぶ可能性がある。

――

その考えに至った瞬間、玲依の中に、これまでとは違う種類の緊張が、静かに、けれど確かに、根を張った。

――

窓の外、午後の光が、静かに部屋を満たしていた。

その穏やかな光とは裏腹に、玲依の内側では、まだ言葉にならない不安が、小さく渦を巻き始めていた。
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