そこにあったはずの愛
第五十二話 二人きりの出張

「来週、大阪の件で、一泊二日の出張が入る」

桐生が、スケジュール帳を開きながら、そう告げた。

「先方との最終調整だ。黒崎も、同行してくれ」

――

いつも通りの、事務的な口調だった。

けれど、その言葉が、玲依の耳に届いた瞬間、心臓が、大きく跳ねた。

――

「随行は、私だけ、ですか」

声が、平静を装いながらも、微かに強張っていた。

「ああ。今回は、他部署の同席は必要ない」

――

一泊二日。

宿泊を伴う出張。

そして、随行者は、自分一人。

――

これまでも、桐生の秘書として、出張の同行は何度も経験してきた。

以前なら、業務の一環として、何の感情も伴わずに受け止められていたはずだった。

――

けれど、今は、違った。

つい先日、気づいてしまった、桐生の視線の意味。

その事実が、この何気ない業務連絡を、まったく別の重みへと変えていた。

――

「日程は、来週の水曜と木曜だ。ホテルの手配は、こちらで済ませてある」

桐生は、資料を差し出しながら、続けた。

「部屋は、別々に取ってある。念のため」

――

その一言に、玲依は、一瞬、言葉を失った。

念のため、という言葉が、何を意味しているのか。

桐生が、玲依の警戒を、あらかじめ見越していたのか。

それとも、単なる配慮だったのか。

――

判断がつかなかった。

けれど、その一言があったことで、かえって、玲依の中の疑念は、深まった。

――

「かしこまりました」

玲依は、いつも通りの声で、そう答えた。

三年間、培ってきた、感情を表に出さない技術。

それが、今、こんな場面で、これほど役立つとは思わなかった。

――

「何か、問題があるか」

桐生が、玲依の様子を、じっと見つめながら聞いた。

その視線に、玲依は、内心、動揺した。

――

「いえ。問題ありません」

即座に、そう答える。

けれど、答えながら、自分の声が、いつもよりわずかに硬いことに、玲依自身、気づいていた。

――

「そうか」

桐生は、それ以上、深くは踏み込まなかった。

けれど、その一瞬の間に、玲依は、何かを見透かされたような感覚を覚えた。

――

資料を受け取り、社長室を後にする。

廊下を歩きながら、玲依は、自分の手のひらが、微かに湿っていることに気づいた。

――

自分のデスクに戻り、椅子に腰を下ろす。

けれど、すぐには、仕事に戻れなかった。

――

一泊二日。

二人きり。

別の部屋とはいえ、同じホテルに、一晩、泊まることになる。

――

考えれば考えるほど、玲依の中に、複雑な感情が渦を巻いていった。

――

これは、ただの業務出張だ。

そう、自分に言い聞かせようとした。

三年間、何度も繰り返してきた出張と、本質的には何も変わらないはずだった。

――

けれど、あの日気づいてしまった事実が、その言い聞かせを、根底から揺さぶっていた。

桐生の中に、業務とは別の感情があるのだとしたら。

この出張は、桐生にとって、ただの業務ではないのかもしれない。

――

玲依は、デスクの上で、拳を、そっと握った。

――

断ることは、できない。

秘書としての立場上、明確な理由もなく出張を拒否すれば、不自然すぎる。

それに、まだ、確証があるわけではない。

すべては、玲依の中だけの、推測に過ぎなかった。

――

考えすぎているだけかもしれない。

そう思いたい自分と、それでも拭えない警戒心を持つ自分が、玲依の中で、静かにせめぎ合っていた。

――

窓の外を見つめながら、玲依は、深く息を吐いた。

――

そして、ふと、思考の片隅に、凛の顔が浮かんだ。

――

この事実を、どう伝えればいいのだろう。

一泊二日の出張。

社長と、二人きり。

――

言葉にした瞬間、凛が、どんな顔をするか。

想像するだけで、玲依の胸が、重く沈んでいった。

――

これまでの三年間、玲依は、誰かに自分の予定を報告するという習慣を、持ったことがなかった。

体だけの関係だった頃、必要だったのは、ただ「会えない」という一言だけだった。

――

けれど今は、違う。

凛は、玲依の生活のすべてに、繋がっている存在だった。

――

だからこそ、この出張のことを、隠すわけにはいかなかった。

けれど、正直に伝えることが、凛を不必要に不安にさせる結果になるのではないか。

――

玲依は、答えの出ない問いを、頭の中で、何度も繰り返していた。

――

デスクの上の資料に、視線を落とす。

大阪、水曜、木曜、という文字が、いやに重く、玲依の目に映っていた。

――

この出張が、ただの業務で終わるのか。

それとも、何か別の意味を持つことになるのか。

――

玲依には、まだ、分からなかった。

けれど、確かなことが一つだけあった。

――

どんなことがあっても、自分の心が、凛以外の誰かに揺らぐことはない。

その一点だけは、玲依の中で、揺るぎない事実として、静かに存在していた。
< 52 / 111 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop