そこにあったはずの愛
第五十四話 一人で抱える夜

出張の前日。

その夜は、玲依とは会わずに過ごすことになっていた。

明日に備えて、早めに休むという玲依の言葉に、凛は、素直に頷いた。

――

一人きりの部屋。

いつもと変わらないはずの空間が、今夜は、やけに静かに感じられた。

――

ベッドに横になり、天井を見上げる。

さっき玲依に言った言葉が、まだ、耳の奥に残っていた。

――

三年間、お互い証明できない約束を、それでも守ってきたんだ。

今さら、疑ったりしないよ。

――

あの言葉に、嘘はなかった。

玲依を疑う気持ちなど、これっぽっちもない。

三年間、玲依が誰とも寝ていなかったことを、凛は、確信を持って信じられる。

その確信は、これから先も、揺らぐことはないはずだった。

――

けれど。

――

信じていることと、不安がないことは、同じではない。

そのことに、凛は、今夜、初めて気づかされていた。

――

桐生。

会ったこともない名前が、頭の中で、繰り返し浮かんでは消えていく。

――

大手企業の社長。

三十代後半だと、玲依は言っていた。

自分の力で会社を立ち上げ、成功を収めた人間。

――

その人物像を、凛は、勝手に思い描いてしまう。

隙のないスーツを纏い、余裕のある笑みを浮かべる姿。

玲依と同じ世界の言葉で話し、同じ空気の中で息をしている人。

――

その隣に、玲依が立つ姿を、凛は、想像したくなかった。

けれど、想像するなと思うほど、頭の中に、その光景が浮かんでしまう。

――

隙のないスーツ姿の玲依と、同じように隙のない男。

似合いすぎているその光景に、凛は、目を閉じた。

――

自分は、何者でもない。

大学生で、絵を描くことしか、取り柄がない。

玲依に見せている自分は、いつも、精一杯、取り繕った姿だった。

本当は、生活のために、バイトを掛け持ちしている。

睡眠時間を削って、綱渡りのように、この生活を保っている。

――

そのことを、玲依は、知らない。

玲依が見ているのは、大学に通い、身なりを整えた、体裁の良い自分だけだった。

――

もし、本当の自分を知ったら。

それでも、玲依は、自分を選んでくれるだろうか。

答えは、分からなかった。

分からないことが、何より、怖かった。

――

けれど、今、この瞬間、玲依が選んでくれているのは、紛れもなく事実だった。

その事実だけが、今、凛の中で、かろうじて、心を支えていた。

――

それでも。

一泊二日。

同じホテルに泊まる、という事実の重みは、想像だけで、凛の胸を、じわじわと締め付けた。

――

部屋は別々だと、玲依は言っていた。

そんな配慮を、わざわざする必要があったこと自体が、かえって、凛の不安を煽っていた。

――

もし、その相手が、玲依に何か特別な感情を抱いているのだとしたら。

その可能性を、凛は、まだ、確かめようがなかった。

玲依自身、はっきりとは言わなかった。

――

聞けば良かったのだろうか。

社長は、あなたのことを、どう思っているのかと。

――

けれど、そんな質問を、凛にはできなかった。

疑っているように聞こえてしまうことが、怖かった。

信じると言った自分の言葉を、自分で裏切りたくなかった。

――

だから、凛は、何も聞かずに、笑って送り出すことしかできなかった。

――

天井を見上げたまま、凛は、静かに息を吐いた。

――

自分にできることは、何もない。

明日、玲依が、どこで、誰と、どんな時間を過ごすのか。

その一切に、凛は、関わることができない。

――

ただ、待つことしか、できない。

――

その無力さが、これまで感じたことのない重さで、凛の胸にのしかかっていた。

――

三年前、体だけの関係で良いと、自分から望んだ。

それだけで、そばにいられるならと、そう思っていた。

――

けれど、今は、違う。

恋人になったことで、玲依の生活の細部にまで、心が引っ張られるようになった。

それは、喜びであると同時に、これまで知らなかった種類の、苦しさでもあった。

――

スマホを手に取り、玲依に、何かメッセージを送ろうとした。

けれど、指が、うまく動かなかった。

不安を、そのまま伝えることは、したくなかった。

――

結局、何も送らずに、凛は、スマホを、そっと枕元に置いた。

――

目を閉じる。

けれど、眠りは、なかなか訪れなかった。

――

明日、玲依が、無事に帰ってくること。

今、凛にできる願いは、それだけだった。

――

暗い天井を見つめながら、凛は、長い夜を、一人で、静かに過ごしていた。
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