そこにあったはずの愛
第五十六話 届く言葉、埋まらない距離

朝、目が覚めても、昨夜の重さは、まだ胸の奥に残っていた。

凛は、いつも通り、大学に向かう準備を始めた。

けれど、頭の片隅では、ずっと、今日という日のことを意識していた。

――

スマホが、震えたのは、大学に向かう電車の中だった。

『新幹線、乗った』

短い一文だった。

けれど、それだけで、凛の肩から、微かに力が抜けた。

――

『了解、気をつけて』

すぐに、返信を送る。

こんな、何でもないやり取りが、今はひどく、ありがたかった。

――

講義の合間、休憩時間。

スマホを確認すると、また、新しいメッセージが届いていた。

『商談、始まる。順調そう』

――

その一言に、凛は、小さく笑みを浮かべた。

玲依が、忙しい合間を縫って、わざわざ連絡をくれている。

それだけで、胸の奥に溜まっていた不安が、少しずつ、薄れていくようだった。

――

けれど。

その安堵は、長くは続かなかった。

――

次のメッセージが来るまでの時間、凛の思考は、また、じわじわと、不安な方向へと傾いていく。

――

今、玲依は、どこにいるのだろう。

隣に、あの人はいるのだろうか。

――

想像したくないのに、頭の中に、勝手にその光景が浮かんでしまう。

隙のないスーツを着た男と、並んで座る玲依の姿。

――

凛は、頭を振って、その想像を、無理やり振り払った。

信じると、決めたはずだった。

――

バイト先に向かう道中、再び、スマホが震える。

『商談、終わった。今からホテル』

――

その一文に、凛は、少しだけ、ほっとした。

けれど、続く文面に、また、心臓が跳ねた。

――

『部屋、別々だから安心して』

――

わざわざ、そう書いてくれたことに、玲依の気遣いを感じた。

けれど同時に、その一文があるということ自体が、凛の中の不安を、逆に裏付けているようにも思えた。

――

心配をかけまいとする玲依の優しさと、それでも消えない自分の不安。

その両方が、同時に、凛の胸の中に存在していた。

――

バイト中も、休憩の合間、スマホを確認する癖がついてしまっていた。

いつもなら、こんなことはしない。

けれど、今日ばかりは、どうしても、気になって仕方なかった。

――

夕方、休憩室で、また一通、メッセージが届く。

『夕食、社長と一緒に取ることになった。仕事の話だけだから』

――

「仕事の話だけ」

わざわざ、そう書かれていること。

その一文の意味を、凛は、何度も読み返した。

――

安心させようとしてくれている。

それは、分かっていた。

けれど、その説明が必要だと玲依自身が思っていること自体が、凛にとっては、また新しい不安の種になった。

――

夜、アパートに戻り、一人、ベッドに横になる。

スマホを、手放せずにいた。

――

『食事、終わった。部屋に戻った』

そのメッセージに、凛は、大きく息を吐いた。

一日の中で、一番、安堵した瞬間だった。

――

『お疲れ様。今日、何回も連絡くれてありがとう』

凛は、そう返信を打った。

素直な気持ちだった。

――

『心配かけたくなかったから』

『ありがとう、それだけでだいぶ楽だった』

――

短いやり取りだった。

けれど、その一つ一つの言葉が、凛の胸に、確かに染み込んでいった。

――

玲依の気遣いは、間違いなく、凛の心を支えていた。

文字を通してでも、玲依の存在を感じられることが、こんなにもありがたいのだと、今日、初めて知った。

――

けれど。

――

文字だけでは、埋まらないものが、確かにあった。

今、玲依が、どんな表情でそのメッセージを打っているのか。

どんな部屋で、どんな空気の中にいるのか。

その一切を、凛は、想像することしかできなかった。

――

安心と、不安。

その両方を抱えたまま、凛は、スマホの画面を、しばらく見つめていた。

――

『明日、帰ったら、会いたい』

最後に、そう送る。

――

『うん、会おうね』

すぐに返ってきた返信に、凛は、小さく笑った。

――

けれど、その笑みの奥に、まだ、拭いきれない何かが、静かに残っていた。

――

明日、玲依が帰ってくるまで。

この落ち着かない時間を、凛は、一人で、耐えるしかなかった。
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