そこにあったはずの愛
第五十七話 口の形が伝えた名前
帰りの新幹線。
隣の座席で、玲依が、うとうとと船を漕いでいた。
二日間の疲れが、無防備な形で、その横顔に滲んでいる。
颯斗は、書類から視線を上げ、その様子を、ちらりと見た。
――
玲依の手の中で、スマホが、小さく震えた。
画面が、一瞬、明るくなる。
『凛:東京着いたら連絡して』
颯斗の視界に、その文字が、一瞬だけ映り込んだ。
凛。
男か、女か、その一文字だけでは、判断がつかない名前だった。
――
玲依は、目を閉じたまま、気づいていない様子だった。
颯斗は、それ以上、視線を留めなかった。
何も、聞かなかった。
けれど、その一文字は、颯斗の中に、静かに刻み込まれていた。
――
東京駅に到着する。
ホームに降り立ち、改札へと向かう。
「今日は、助かった。ゆっくり休んでくれ」
「桐生さんも、お疲れ様でした」
いつも通りの、事務的な挨拶を交わし、二人は、改札の前で別れた。
――
颯斗は、そのまま歩き出そうとした。
けれど、ふと、振り返った。
少し離れた場所で、玲依が、スマホを耳に当てていた。
颯斗の足が、自然と、止まった。
――
雑踏の音に紛れて、声までは、届かなかった。
けれど、その表情だけは、颯斗の視界に、はっきりと映っていた。
これまで、颯斗の前では、一度も見せたことのない表情だった。
柔らかく、緩んだ、心底からの笑み。
玲依の唇が、小さく動く。
「りん」
声は、聞こえなかった。
けれど、その口の形が、颯斗には、はっきりと読み取れた。
心臓が、鈍く、重く、脈打った。
――
凛。
さっき見た、あの通知の名前と、今、玲依の口が形作った名前。
二つが、颯斗の中で、静かに重なった。
想像していた誰かに、初めて、確かな輪郭が与えられた瞬間だった。
颯斗は、それ以上、その場に留まらなかった。
何も聞かず、何も言わず、ただ、静かに、踵を返した。
――
雑踏の中を、一人、歩き出す。
けれど、頭の中では、たった今見た光景が、繰り返し、再生されていた。
あんな顔を、この三年間、一度も見たことがなかった。
隙のない秘書としての顔。
丁寧で、けれど、どこか一線を引いた笑み。
それが今、電話の向こうの誰かに向けて、まったく違う表情に変わっていた。
颯斗は、口の中で、その名前を、小さく、音にしてみた。
「凛、か」
声にしてみても、実感は、まだ、追いついてこなかった。
けれど、確かなことが、一つだけあった。
その存在は、もう、想像の中の、輪郭のない誰かではなくなった。
颯斗の中で、静かに、けれど確実に、何かが、動き始めていた。
帰りの新幹線。
隣の座席で、玲依が、うとうとと船を漕いでいた。
二日間の疲れが、無防備な形で、その横顔に滲んでいる。
颯斗は、書類から視線を上げ、その様子を、ちらりと見た。
――
玲依の手の中で、スマホが、小さく震えた。
画面が、一瞬、明るくなる。
『凛:東京着いたら連絡して』
颯斗の視界に、その文字が、一瞬だけ映り込んだ。
凛。
男か、女か、その一文字だけでは、判断がつかない名前だった。
――
玲依は、目を閉じたまま、気づいていない様子だった。
颯斗は、それ以上、視線を留めなかった。
何も、聞かなかった。
けれど、その一文字は、颯斗の中に、静かに刻み込まれていた。
――
東京駅に到着する。
ホームに降り立ち、改札へと向かう。
「今日は、助かった。ゆっくり休んでくれ」
「桐生さんも、お疲れ様でした」
いつも通りの、事務的な挨拶を交わし、二人は、改札の前で別れた。
――
颯斗は、そのまま歩き出そうとした。
けれど、ふと、振り返った。
少し離れた場所で、玲依が、スマホを耳に当てていた。
颯斗の足が、自然と、止まった。
――
雑踏の音に紛れて、声までは、届かなかった。
けれど、その表情だけは、颯斗の視界に、はっきりと映っていた。
これまで、颯斗の前では、一度も見せたことのない表情だった。
柔らかく、緩んだ、心底からの笑み。
玲依の唇が、小さく動く。
「りん」
声は、聞こえなかった。
けれど、その口の形が、颯斗には、はっきりと読み取れた。
心臓が、鈍く、重く、脈打った。
――
凛。
さっき見た、あの通知の名前と、今、玲依の口が形作った名前。
二つが、颯斗の中で、静かに重なった。
想像していた誰かに、初めて、確かな輪郭が与えられた瞬間だった。
颯斗は、それ以上、その場に留まらなかった。
何も聞かず、何も言わず、ただ、静かに、踵を返した。
――
雑踏の中を、一人、歩き出す。
けれど、頭の中では、たった今見た光景が、繰り返し、再生されていた。
あんな顔を、この三年間、一度も見たことがなかった。
隙のない秘書としての顔。
丁寧で、けれど、どこか一線を引いた笑み。
それが今、電話の向こうの誰かに向けて、まったく違う表情に変わっていた。
颯斗は、口の中で、その名前を、小さく、音にしてみた。
「凛、か」
声にしてみても、実感は、まだ、追いついてこなかった。
けれど、確かなことが、一つだけあった。
その存在は、もう、想像の中の、輪郭のない誰かではなくなった。
颯斗の中で、静かに、けれど確実に、何かが、動き始めていた。