そこにあったはずの愛
第五十九話 隙のない世界
気づけば、凛は、玲依の会社の前まで来ていた。
連絡は、していない。
サプライズのつもりも、なかった。
ただ、いてもたってもいられなかった。
――
高層ビルのエントランス。
行き交う人々は、皆、隙のないスーツを纏っていた。
――
凛は、少し離れた場所に立ち、その光景を、ぼんやりと眺めていた。
自分の格好が、この場所に、まったく馴染んでいないことを、嫌でも意識させられる。
大学の課題で使う、絵の具の匂いが染みついたトートバッグ。
着古したパーカー。
――
以前も、こうして、玲依を迎えに来たことがあった。
あのときは、ただ、玲依に会いたいという、単純な衝動だけだった。
今は、違う。
――
しばらく待っていると、エントランスの自動ドアが開いた。
玲依が、出てくる。
その隣に、一人の男が、並んで歩いていた。
――
凛の心臓が、大きく、跳ねた。
――
隙のない、仕立ての良いスーツ。
背筋を伸ばした、堂々とした歩き方。
年齢は、玲依より、少し上に見える。
余裕のある表情で、玲依に何か話しかけていた。
――
あれが、桐生。
想像するしかなかった存在が、今、初めて、確かな実体を持って、凛の目の前に現れていた。
――
二人は、当たり前のように、並んで歩いていた。
その距離感、その歩調の揃い方に、凛は、言葉を失った。
――
同じ世界の住人同士。
そう思わせるだけの、何かが、確かにあった。
――
桐生が、何か言った。
内容までは、聞こえない。
けれど、玲依が、それに応じて、小さく微笑んだ。
――
その微笑みが、凛の胸に、深く突き刺さった。
――
いつも、自分に向けられている笑顔と、同じ種類のものに見えた。
いや、そんなはずはない。
そう思おうとしても、一度浮かんでしまった疑念は、簡単には消えなかった。
――
大学生。
美大に通い、絵を描くことしか、取り柄がない。
隣に立つ、あの隙のない男とは、住んでいる世界そのものが、根本から違う。
――
これまで、頭の中だけで繰り返してきた不安が、今、目の前の光景によって、確かな輪郭を持った。
――
凛は、声をかけなかった。
姿を見せることも、しなかった。
ただ、少し離れた場所から、その光景を、じっと見つめていた。
――
やがて、桐生が、車に乗り込んでいく。
玲依は、それを見送った後、一人、駅の方向へと歩き出した。
――
凛は、その後を、追わなかった。
追う勇気が、なかった。
――
一人、立ち尽くしたまま、凛は、たった今見た光景を、何度も、頭の中で反芻していた。
――
隙のないスーツ。
自然な距離感。
微笑む玲依の顔。
――
自分と、あの男との間にある差は、想像していたよりも、遥かに、大きかった。
――
これまで、玲依が、自分を選んでくれていることだけを、心の支えにしてきた。
けれど今、その支えが、初めて、揺らいだ気がした。
――
もし、玲依が、あの世界に、本当に相応しい相手と出会ってしまったら。
その考えが、頭から、離れなかった。
――
夕暮れの中、凛は、来た道を、一人、引き返していく。
その足取りは、来たときよりも、ずっと、重かった。
――
不釣り合いだ。
誰に言われるまでもなく、今、はっきりと、思い知らされた。
――
胸の奥に、これまでにない重さが、静かに、澱のように沈んでいった。
気づけば、凛は、玲依の会社の前まで来ていた。
連絡は、していない。
サプライズのつもりも、なかった。
ただ、いてもたってもいられなかった。
――
高層ビルのエントランス。
行き交う人々は、皆、隙のないスーツを纏っていた。
――
凛は、少し離れた場所に立ち、その光景を、ぼんやりと眺めていた。
自分の格好が、この場所に、まったく馴染んでいないことを、嫌でも意識させられる。
大学の課題で使う、絵の具の匂いが染みついたトートバッグ。
着古したパーカー。
――
以前も、こうして、玲依を迎えに来たことがあった。
あのときは、ただ、玲依に会いたいという、単純な衝動だけだった。
今は、違う。
――
しばらく待っていると、エントランスの自動ドアが開いた。
玲依が、出てくる。
その隣に、一人の男が、並んで歩いていた。
――
凛の心臓が、大きく、跳ねた。
――
隙のない、仕立ての良いスーツ。
背筋を伸ばした、堂々とした歩き方。
年齢は、玲依より、少し上に見える。
余裕のある表情で、玲依に何か話しかけていた。
――
あれが、桐生。
想像するしかなかった存在が、今、初めて、確かな実体を持って、凛の目の前に現れていた。
――
二人は、当たり前のように、並んで歩いていた。
その距離感、その歩調の揃い方に、凛は、言葉を失った。
――
同じ世界の住人同士。
そう思わせるだけの、何かが、確かにあった。
――
桐生が、何か言った。
内容までは、聞こえない。
けれど、玲依が、それに応じて、小さく微笑んだ。
――
その微笑みが、凛の胸に、深く突き刺さった。
――
いつも、自分に向けられている笑顔と、同じ種類のものに見えた。
いや、そんなはずはない。
そう思おうとしても、一度浮かんでしまった疑念は、簡単には消えなかった。
――
大学生。
美大に通い、絵を描くことしか、取り柄がない。
隣に立つ、あの隙のない男とは、住んでいる世界そのものが、根本から違う。
――
これまで、頭の中だけで繰り返してきた不安が、今、目の前の光景によって、確かな輪郭を持った。
――
凛は、声をかけなかった。
姿を見せることも、しなかった。
ただ、少し離れた場所から、その光景を、じっと見つめていた。
――
やがて、桐生が、車に乗り込んでいく。
玲依は、それを見送った後、一人、駅の方向へと歩き出した。
――
凛は、その後を、追わなかった。
追う勇気が、なかった。
――
一人、立ち尽くしたまま、凛は、たった今見た光景を、何度も、頭の中で反芻していた。
――
隙のないスーツ。
自然な距離感。
微笑む玲依の顔。
――
自分と、あの男との間にある差は、想像していたよりも、遥かに、大きかった。
――
これまで、玲依が、自分を選んでくれていることだけを、心の支えにしてきた。
けれど今、その支えが、初めて、揺らいだ気がした。
――
もし、玲依が、あの世界に、本当に相応しい相手と出会ってしまったら。
その考えが、頭から、離れなかった。
――
夕暮れの中、凛は、来た道を、一人、引き返していく。
その足取りは、来たときよりも、ずっと、重かった。
――
不釣り合いだ。
誰に言われるまでもなく、今、はっきりと、思い知らされた。
――
胸の奥に、これまでにない重さが、静かに、澱のように沈んでいった。