そこにあったはずの愛
第六十話 名前を、知られた

気づけば、また、ここに来ていた。

玲依の会社の前。

あの日と、同じ場所。

――

あの光景を見てしまってから、頭から離れない。

分かっていながら、来てしまった。

また、同じ光景を見てしまうかもしれないと、分かっていたのに。

ただ、玲依の無事な顔を、一目でいいから、確かめたかった。

――

けれど、ビルを見上げながら、凛は、自分がひどく惨めであることに気づいていた。

こんなふうに、こそこそと様子を伺うことしか、自分にはできない。

――

肩に下げた、作品ケースの重みが、いつもより、重く感じられた。

課題の講評を終えたばかりで、大学からそのまま、ここに来てしまった。

――

「――赤羽凛くん、だよな」

不意に、背後から、声がかかった。

凛は、はっとして、振り返った。

――

隙のないスーツを着た男が、そこに立っていた。

見覚えのある顔だった。

あの日、玲依の隣を歩いていた、あの男。

心臓が、大きく、跳ねた。

なぜ、自分に気づいたのか。

疑問より先に、逃げ出したい衝動が、凛の体を支配した。

――

男の視線が、凛の肩に下げた、作品ケースへと向けられていた。

そこに、油性ペンで書いた、自分の名前があった。

――

凛は、咄嗟に、ケースを、体の後ろに隠そうとした。

けれど、もう遅かった。

――

「桐生だ。黒崎が秘書を務めている会社で、社長をしている」

男は、そう名乗った。

余裕のある声だった。

――

その名前を聞いた瞬間、全身から、血の気が引いていくのが分かった。

――

想像でしか、存在しなかった相手。

その人物が、今、目の前に立っている。

――

「黒崎から、話は聞いたことがなくてね」

桐生は、微笑みながら、そう言った。

「けれど、スマホの通知や、電話での話しぶりで、なんとなく、察してはいた」

――

凛は、何も、言葉を返せなかった。

喉の奥が、からからに乾いていた。

――

「君のことか」

――

短い問いだった。

けれど、その一言だけで、すべてを見透かされている気がした。

――

凛は、答えなかった。

答えられなかった。

否定しても、無駄なことは、分かっていた。

――

沈黙が、答えの代わりになった。

桐生の口元が、微かに、笑みの形を深くした。

――

「なるほど」

桐生は、そう呟くと、凛の姿を、ゆっくりと、上から下まで、眺めた。

――

その視線に、凛は、体の芯まで、見透かされているような感覚を覚えた。

絵の具の匂いが染みついたトートバッグ。

着古した服。

すべてが、この場所には、あまりにも不釣り合いだった。

――

「大学生、か」

桐生の声に、蔑みは、なかった。

けれど、その事実を、静かに確認するような口調が、かえって、凛の胸を、抉った。

――

「あの、彼女のことは」

凛は、震える声を、必死に絞り出そうとした。

けれど、言葉が、続かなかった。

――

桐生は、凛の言葉を、遮ることも、急かすこともしなかった。

ただ、静かに、次の言葉を待っていた。

その余裕そのものが、凛の言葉を、さらに奪っていった。

――

「……何か、俺に言いたいことが、あるんですか」

凛は、かろうじて、そう絞り出した。

――

桐生は、少しの間、凛の顔を見つめた後、口を開いた。

――

「この世界で、彼女と対等に生きていける自信が、君にはあるか?」

――

その問いに、凛の心臓が、鈍く、重く、打った。

――

反論の言葉は、どこにも見つからなかった。

自分でも、ずっと、考えてきたことだった。

けれど、他人の口から、こんなにも真っ直ぐに問われたのは、初めてだった。

――

「彼女は、これから先も、こういう世界で、生きていく」

桐生は、淡々と、続けた。

「君は、その隣に、いつまで、立っていられる?」

――

言葉一つ一つが、凛の中の、一番柔らかい部分を、正確に、貫いていった。

――

「答えなくていい」

桐生は、そう言うと、僅かに、目を細めた。

「君の顔を見れば、分かる」

――

凛は、何も言えなかった。

反論する材料も、心の余裕も、どこにも残っていなかった。

――

「彼女には、この話はしない」

桐生は、最後にそう言い残すと、身を翻し、その場を去っていった。

――

隙のない後ろ姿が、雑踏の中に、静かに、消えていく。

――

凛は、その場に、立ち尽くしていた。

足が、動かなかった。

――

――この世界で、彼女と対等に生きていける自信が、君にはあるか。

――

その問いが、頭の中で、何度も、繰り返し、鳴り響いていた。

――

答えは、とうに、分かっていた。

自分自身が、一番よく、知っていた。

――

凛は、力の抜けた足で、その場に、ゆっくりと、蹲り込んだ。

――

肩にかけた、作品ケースだけが、いやに、重く感じられた。

――

自分の名前が書かれた、そのケースを、凛は、しばらくの間、ただ、見つめ続けていた。
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