そこにあったはずの愛
第六十一話 電話越しの違和感

『今週、ちょっと厳しいかも』

スマホの画面に、そんな一文が届いたのは、月曜の夜だった。

『卒業制作、佳境で』

――

玲依は、その文面を見つめながら、小さく頷いた。

美大の四年生といえば、卒業制作に追われる時期だということは、知識としては理解していた。

『分かった。無理しないで』

そう返信を送る。

――

けれど、送信した後、玲依の指先は、しばらく、画面の上で止まっていた。

理由のない、微かな引っかかりが、胸の奥にあった。

――

その夜、電話をかけてみる。

「もしもし」

凛の声が、聞こえた。

いつもの声のはずだった。

けれど、玲依は、その一言だけで、何かが、いつもと違うことに気づいた。

――

「制作、どう?」

「うん、まあ、進んでる」

短い返事だった。

いつもなら、もっと詳しく、絵の構図がどうとか、色使いがどうとか、楽しそうに話してくれるはずだった。

――

「大変そうだね」

「そんなことないよ」

「無理しないでね」

「うん、大丈夫」

――

会話は、成立していた。

言葉の上では、何もおかしなところはなかった。

けれど、玲依の中に、拭えない違和感が、静かに広がっていった。

――

相槌のタイミングが、いつもより、少しだけ遅い。

まるで、何かを考えながら、言葉を選んでいるような、間があった。

――

「今度、いつ会える?」

玲依が、そう聞くと、電話の向こうで、僅かな沈黙があった。

「……分かんない。制作、落ち着いたら」

――

いつもなら、「早く会いたい」と、すぐに返ってくる言葉だった。

その一言が、今夜は、なかった。

――

「そっか」

玲依は、それ以上、踏み込まなかった。

けれど、通話を終えた後も、その短いやり取りが、ずっと、頭の中に残っていた。

――

翌日も、翌々日も、似たようなやり取りが続いた。

メッセージの文面は、以前より、明らかに短くなっていた。

以前なら、他愛のない話題を、いくつも重ねてくれていたのに。

今は、必要最低限の言葉だけが、返ってくるようになっていた。

――

「疲れてるんだろうな」

玲依は、そう自分に言い聞かせた。

卒業制作は、大学生活の集大成だと聞く。

心身ともに、削られる時期があっても、おかしくはなかった。

――

けれど、理由をつけて納得しようとするたびに、その説明では埋まらない何かが、玲依の中に、残った。

――

ある夜、電話越しに、凛が、ふと、言葉を詰まらせる瞬間があった。

「凛?」

「……ごめん、何でもない」

すぐに、いつもの声に戻る。

けれど、その一瞬の空白が、玲依の耳に、いつまでも残った。

――

笑い方も、変わった気がした。

以前は、もっと軽やかに、あっけらかんと笑っていたはずなのに。

今は、その笑い声の端に、何か、無理をして作っているような、硬さが混じっていた。

――

玲依は、隠し事をすることも、されることも、好きではなかった。

けれど、凛が、今、自分から何かを話そうとしていないのなら、無理に問い詰めるべきではないとも、思っていた。

――

凛には、凛のペースがある。

言いたくなったら、きっと、話してくれるはずだ。

そう、自分に言い聞かせようとした。

――

けれど、日を追うごとに、その違和感は、消えるどころか、少しずつ、確かな重みを増していった。

――

会う頻度は、減った。

電話の時間も、短くなった。

言葉数は、少なくなり、けれど、時折、必要以上に優しい言葉を、選んでいるようにも感じられた。

――

まるで、何かを、隠そうとしているような。

あるいは、何かに、耐えているような。

――

その正体が、何なのか。

玲依には、まだ、まったく見当がつかなかった。

――

ただ、確かなことが、一つだけあった。

――

凛は今、一人で、何かを、抱え込んでいる。

その予感だけが、玲依の中で、日に日に、大きくなっていった。

――

窓の外、夜が更けていく。

玲依は、スマホの画面を、何度も、見つめ直した。

――

会いたい、と伝えたい気持ちと、無理に踏み込むべきではないという理性が、玲依の中で、静かにせめぎ合っていた。

――

その夜も、玲依は、短いメッセージを送るだけに留めた。

『無理しないでね。いつでも、待ってるから』

――

既読は、すぐについた。

けれど、返信は、しばらく、届かなかった。
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