そこにあったはずの愛
第六十二話 見てはいけないもの

残業を終え、会社を出たのは、夜の九時を過ぎた頃だった。

疲れた体に、少し良いコーヒーが飲みたくなって、玲依は、いつもとは違う道を選んだ。

評判のカフェが、この先にあったはずだった。

――

夜の街を、一人、歩く。

ここ数日、ずっと抱えていた違和感は、今夜は、意識の隅に追いやっていた。

ただ、温かいコーヒーの香りだけを、頭に思い描いていた。

――

角を曲がると、工事現場の白い灯りが、目に入った。

夜間工事だろうか。

金属の擦れる音、重機の低い唸り。

作業員たちの、押し殺した掛け声。

――

玲依は、それらの音を、特に気にも留めず、通り過ぎようとした。

けれど。

――

視界の端に、見覚えのある背格好が、映った。

ヘルメット。

作業着。

汗で肌に張り付いた、シャツの背中。

――

まさか。

そう思いながらも、玲依の足は、勝手に、止まっていた。

――

その人影が、重い資材を、両腕で抱え上げる。

苦しそうに、けれど慣れた様子で、それを運んでいく。

――

灯りの下、その横顔が、はっきりと見えた。

――

凛だった。

――

心臓が、大きく、跳ねた。

息が、うまくできなくなった。

――

なぜ?

どうして、凛が、ここにいるの?

――

疑問が、次々と、頭の中を駆け巡った。

けれど、どの問いにも、答えは、見つからなかった。

――

玲依は、その場から、動けなかった。

声をかけることも、目を逸らすこともできず、ただ、立ち尽くしていた。

――

汗だくで、資材を運ぶ凛の姿。

これまで一度も、見たことのない顔だった。

苦しそうに歪んだ、その表情。

疲労の色を、隠しきれない、その動き。

――

ここ数日感じていた違和感、以前見た疲れた顔、あの頃から感じ取っていた、漠然とした何か。

すべてが、今、この一つの光景に、繋がっていく。

――

自分は、何も知らなかった。

三年間、そばにいながら、凛の本当の姿を、何一つ、知らなかった。

――

その事実が、玲依の胸を、鈍く、重く、締め付けた。

――

「お姉ちゃん、そこ危ないよ」

――

不意に、すぐ横から、声がかかった。

警備員が、誘導灯を手に、玲依に向かって、そう言っていた。

「あ……すみません」

反射的に、玲依は、頭を下げた。

――

その声は、静かな夜の中で、思いのほか、よく響いた。

――

資材を運んでいた凛が、その声に、何気なく、振り返った。

――

視線が、交わった。

――

凛の動きが、完全に、止まった。

――

抱えていた資材が、その手から、僅かに、滑り落ちそうになる。

慌てて、それを支え直しながら、凛は、目を見開いたまま、玲依を見つめていた。

――

信じられない、というような表情だった。

そこにいるはずのない人間が、そこにいる。

そんな、現実を疑うような目だった。

――

玲依も、動けなかった。

言葉が、何一つ、出てこなかった。

――

夜間工事の灯りの下、二人は、数メートルの距離を挟んで、ただ、見つめ合っていた。

――

周りの喧騒が、遠くなる。

重機の音も、作業員たちの声も、まるで、耳に入らなくなった。

――

凛の顔から、みるみる、血の気が引いていくのが分かった。

――

その表情に浮かんでいたのは、驚きだけではなかった。

――

隠していたことが、ばれてしまったという、動揺。

そして、それ以上に、深い、絶望に近い色。

――

玲依は、何か、言葉をかけようとした。

けれど、喉の奥から、声が、出てこなかった。

――

凛の唇が、小さく、動いた。

けれど、そこから、言葉は、紡がれなかった。

――

ただ、資材を抱えたまま、凛は、その場に、立ち尽くしていた。

――

夜の街の真ん中で、二人は、埋めようのない距離を挟んで、互いの視線だけを、交わし続けていた。
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