そこにあったはずの愛
第六十九話 何も聞かない人
電車を、何本も乗り継いだ。
窓の外の景色が、少しずつ、ビル群から緑の多い田園風景へと変わっていく。
なぜ、ここに向かっているのか、凛自身、はっきりとは説明できなかった。
ただ、体が無意識のうちに、その方向へと動いていた。
ボストンバッグの重みが、肩に食い込んでいた。
その重みが、これから自分がしようとしていることの後ろめたさと、重なって感じられた。
スマホには、まだ返信していないメッセージが残っていた。
玲依からの、あの一文。
『今度、いつ話せる?』
凛は、それを見ないようにした。
見てしまえば、また動けなくなる気がした。
――
ローカル線に乗り換え、さらに一時間近く揺られる。
車窓の景色が、記憶の中のものと重なっていく。
小さな無人駅で、電車を降りた。
駅前には、コンビニが一軒あるだけの、静かな町だった。
そこから歩いて、十五分ほど。
見慣れた、古い一軒家が、視界に入ってきた。
平屋の木造の家。
庭には小さな花壇があり、季節の花が慎ましく咲いていた。
凛は、その前に立ち、しばらく動けなかった。
こんな形で、突然帰ってくることになるとは、思ってもいなかった。
意を決して、玄関の引き戸を開ける。
「……ただいま」
声が掠れていた。
――
奥から、足音が聞こえた。
現れたのは、小柄な、白髪の女性だった。
祖母は、凛の姿を見て、一瞬、目を見開いた。
けれど、すぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。
「おかえり」
たった、その一言だった。
なぜ突然帰ってきたのか。
何があったのか。
そういった問いは、一つも投げかけられなかった。
その静けさに、凛は拍子抜けするのと同時に、深く安堵していた。
「上がりなさい。何も、食べてないでしょう」
祖母は、そう言うと、凛の返事も待たずに、台所へと向かっていった。
その背中を見つめながら、凛は靴を脱ぎ、家に上がった。
見慣れた居間。
古い家具、少し色褪せた畳。
子供の頃、何度も、この部屋で過ごした時間が蘇ってくる。
台所から、味噌汁の匂いが漂ってきた。
その匂いに、凛は思わず、目頭が熱くなった。
――
しばらくして、祖母が、温かい食事を、卓袱台に並べた。
「食べなさい」
凛は箸を取った。
一口、口に運ぶ。
じんわりとした温かさが、体の奥に染み渡っていった。
食事をする凛を、祖母は何も言わずに見守っていた。
その視線に、詰問の色は少しも含まれていなかった。
食べ終えた頃、凛は、ようやく少しだけ、落ち着きを取り戻していた。
「……ばあちゃん」
「うん」
「俺、逃げてきちゃった」
言葉に出した瞬間、これまで抑え込んでいたものが、一気に込み上げてきた。
祖母は、驚く様子も見せず、ただ静かに頷いた。
「そう」
その一言だけで、続きを促すこともなかった。
――
凛は、少しずつ、言葉をこぼし始めた。
すべてではない、けれど、一人で抱えきれなくなっていた重さの一端を、ぽつり、ぽつりと。
働きすぎて、疲れていたこと。
大切な人に、本当の生活を隠し続けてきたこと。
それが知られてしまったこと。
そして、向き合う勇気が持てなかったこと。
祖母は、それらを黙って聞いていた。
相槌を打つことはあっても、意見や説教めいた言葉は、一切口にしなかった。
「凛は、昔から頑張り屋さんだったからねえ」
やがて、祖母が、そう静かに呟いた。
「小さい頃から、母さんのために、無理してたもんね」
その言葉に、凛の目の奥が、じわりと熱くなった。
「頑張るのは、悪いことじゃないよ」
祖母は、皺の刻まれた手で、凛の頭に、そっと触れた。
「けど、頑張りすぎて、大切な人に嘘ついてまで、隠す必要はなかったんじゃないかねえ」
その言葉が、静かに、けれど確かに、凛の胸に染み込んでいった。
「まあ、今更言っても、仕方ないけどね」
祖母は、そう言うと、小さく笑った。
「今夜は、ゆっくり休みなさい。続きは、また明日、考えればいい」
凛は、その言葉に、小さく頷いた。
何も聞かず、けれど、何もかも見透かしているような。
そんな祖母の温かさに、凛は、これまで張り詰めていた何かが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。
電車を、何本も乗り継いだ。
窓の外の景色が、少しずつ、ビル群から緑の多い田園風景へと変わっていく。
なぜ、ここに向かっているのか、凛自身、はっきりとは説明できなかった。
ただ、体が無意識のうちに、その方向へと動いていた。
ボストンバッグの重みが、肩に食い込んでいた。
その重みが、これから自分がしようとしていることの後ろめたさと、重なって感じられた。
スマホには、まだ返信していないメッセージが残っていた。
玲依からの、あの一文。
『今度、いつ話せる?』
凛は、それを見ないようにした。
見てしまえば、また動けなくなる気がした。
――
ローカル線に乗り換え、さらに一時間近く揺られる。
車窓の景色が、記憶の中のものと重なっていく。
小さな無人駅で、電車を降りた。
駅前には、コンビニが一軒あるだけの、静かな町だった。
そこから歩いて、十五分ほど。
見慣れた、古い一軒家が、視界に入ってきた。
平屋の木造の家。
庭には小さな花壇があり、季節の花が慎ましく咲いていた。
凛は、その前に立ち、しばらく動けなかった。
こんな形で、突然帰ってくることになるとは、思ってもいなかった。
意を決して、玄関の引き戸を開ける。
「……ただいま」
声が掠れていた。
――
奥から、足音が聞こえた。
現れたのは、小柄な、白髪の女性だった。
祖母は、凛の姿を見て、一瞬、目を見開いた。
けれど、すぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。
「おかえり」
たった、その一言だった。
なぜ突然帰ってきたのか。
何があったのか。
そういった問いは、一つも投げかけられなかった。
その静けさに、凛は拍子抜けするのと同時に、深く安堵していた。
「上がりなさい。何も、食べてないでしょう」
祖母は、そう言うと、凛の返事も待たずに、台所へと向かっていった。
その背中を見つめながら、凛は靴を脱ぎ、家に上がった。
見慣れた居間。
古い家具、少し色褪せた畳。
子供の頃、何度も、この部屋で過ごした時間が蘇ってくる。
台所から、味噌汁の匂いが漂ってきた。
その匂いに、凛は思わず、目頭が熱くなった。
――
しばらくして、祖母が、温かい食事を、卓袱台に並べた。
「食べなさい」
凛は箸を取った。
一口、口に運ぶ。
じんわりとした温かさが、体の奥に染み渡っていった。
食事をする凛を、祖母は何も言わずに見守っていた。
その視線に、詰問の色は少しも含まれていなかった。
食べ終えた頃、凛は、ようやく少しだけ、落ち着きを取り戻していた。
「……ばあちゃん」
「うん」
「俺、逃げてきちゃった」
言葉に出した瞬間、これまで抑え込んでいたものが、一気に込み上げてきた。
祖母は、驚く様子も見せず、ただ静かに頷いた。
「そう」
その一言だけで、続きを促すこともなかった。
――
凛は、少しずつ、言葉をこぼし始めた。
すべてではない、けれど、一人で抱えきれなくなっていた重さの一端を、ぽつり、ぽつりと。
働きすぎて、疲れていたこと。
大切な人に、本当の生活を隠し続けてきたこと。
それが知られてしまったこと。
そして、向き合う勇気が持てなかったこと。
祖母は、それらを黙って聞いていた。
相槌を打つことはあっても、意見や説教めいた言葉は、一切口にしなかった。
「凛は、昔から頑張り屋さんだったからねえ」
やがて、祖母が、そう静かに呟いた。
「小さい頃から、母さんのために、無理してたもんね」
その言葉に、凛の目の奥が、じわりと熱くなった。
「頑張るのは、悪いことじゃないよ」
祖母は、皺の刻まれた手で、凛の頭に、そっと触れた。
「けど、頑張りすぎて、大切な人に嘘ついてまで、隠す必要はなかったんじゃないかねえ」
その言葉が、静かに、けれど確かに、凛の胸に染み込んでいった。
「まあ、今更言っても、仕方ないけどね」
祖母は、そう言うと、小さく笑った。
「今夜は、ゆっくり休みなさい。続きは、また明日、考えればいい」
凛は、その言葉に、小さく頷いた。
何も聞かず、けれど、何もかも見透かしているような。
そんな祖母の温かさに、凛は、これまで張り詰めていた何かが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。